BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

5月26日 利賀・北京

 今月の20日、シアター・オリンピックスの国際委員会が北京で開かれた。出席したのはアメリカ、イタリア、インド、ギリシャ、韓国、それに新しく加わった中国の委員と私である。この会議で中国の委員から、2013年にシアター・オリンピックスの北京開催を計画しており、そのための組織の形態、予算、上演演目の種類と規模などの報告がされた。主催はこれまでと同じシアター・オリンピックス国際委員会、スポンサーとしての実行委員会は、中国政府と北京市が中心になって組織するとのこと、これが実現すれば、第六回シアター・オリンピックスは大規模なものになりそうである。会議の最後に委員長テオドロス・テルゾプロスが、第六回の特別企画として短期集中的に、現代の演劇が抱えている諸問題についての議論と、その議論の前提になるような作品の上演をしてみたらどうか、それは日本の利賀村で開催するのが適当だと思うが、という提案をした。唐突で不可思議に思った委員もいたようだが、これには理由がある。
 昨年、韓国のソウル市で第五回シアター・オリンピックスが開催された折に、彼は私に言った。大都会での開催はお祭り=商品展示会的なものになりがちな傾向があるから、初回のギリシャ山中の聖地デルフォイの時のように、委員の作品を中心にして、演劇についての議論や意見交換を行うシアター・オリンピックスの在り方を、もう一度検討してみようと。シアター・オリンピックスを、ヨーロッパの各地で開催されている演劇祭と同じようなものにしたくない、小規模でもよいから設立の精神が息づく企画を、利賀村の芸術公園で実現できないかというのである。
 グローバリゼーション下での演劇活動の変質は顕著である。商業主義に抗する新しい演劇活動の理念と、新しい形の国際的な連帯は確かに必要である。それがどんなものになるのか、私も議論はしてみたいと答えた。彼はそのことを考え続けていたのである。
 利賀村で開催する場合、劇場や宿泊施設、事務局の構成はどうあるべきか、どれぐらいの財政的な規模になるのかなどと、いろいろと思いをめぐらしていたら、昨年の10月、中国の国立中央戯劇学院の院長シュー・シャンから、北京に来てほしいという招請状が届いた。そこには二つの用件が書かれていた。一つは、戯劇学院の学生を訓練し演出して欲しい。もう一つは、シアター・オリンピックスを北京で開催したいが協力して欲しい、ということであった。教え演出することは私個人の問題だが、シアター・オリンピックスの開催は、私一人で決められることではない。まず、中国の演劇人の意見を聞き、どの程度の意欲かを知らなければと、1月に北京へ行き、戯劇学院の院長、副院長、話劇芸術研究会の副会長に会った。
 これからの世界的プロジェクトは何をするにつけ、中国国家の存在とその動向を意識せずにはいられない。しかしシアター・オリンピックスの国際委員会には中国代表がいない。これを機会に中国からも委員を出してもらい、もしシアター・オリンピックスの中国開催が実現するなら面白い、そんな気持ちが私の方にもあったのである。中国がどんな国であるのかを身をもって知るにも、共同作業をするにこしたことはない。
 北京での会談の結果、中国での実現性が強いことを確信した私は、北京での国際委員会の開催を各委員に呼びかけた。1994年に作られたシアター・オリンピックス憲章には、次のように記されているからである。
 第5条 国際委員会への新たな委員の入会には、委員1名の推薦及び、委員の3分の2の同意を必要とする。
 第8条 当面のシアター・オリンピックスは、原則として、国際委員の国において開催する。シアター・オリンピックッス開催国の委員が、芸術監督の責務に当たる。開催国の委員(芸術監督)は、シアター・オリンピックスのテーマ及びプログラムを立案し、委員会に計画書を提出し、同意を得るものとする。
 中国から新しく国際委員に加わった、戯劇学院教授で演出家リュウ・リービンの簡にして要をえた報告は各委員に、シアター・オリンピックス北京開催への期待を抱かせた。また、委員長提案の利賀村での特別のプロジェクトについても、各委員は了承した。北京でのシアター・オリンピックスの企画の一つに、利賀村でのプロジェクトを加えるのは、少し重荷だという気持ちもあったが、北京と利賀村、この不思議な取り合わせ、このコントラストの内に、演劇の未来を把握する手掛かりの一端もあるように思えるので私も賛成した。果たしてどんなことになるか。
 来年は中国で私の訓練を教え、演出作品を創ることも決めてきた。これは長年にわたって申し込まれていたことである。自分の作品はこれまでに何度か中国で上演しているが、中国本土での本格的な共同事業や舞台創りは初めてのこと、再来年の北京シアター・オリンピックス、利賀村での特別プロジェクトの成功のためにも、来年はかなり、ガンバラナケレバナラナイ!かもしれない。フランスから始まった私の国際面での演劇人生も、最後は中国との付き合いで終わるのかも。予測を越えた軌跡である。  <ブログ 「9月20日 デカイ話し」参照>