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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月20日 不思議

 ショックを受けて人間は成長するんだよ。物の見方や世界に対する考え方が変わるからね。私は即座に答えた。人間がショックを与えられるのはあまり良いことではない、というニュアンスを含んだ質問を、一人の学生がしたからである。
 静岡県舞台芸術センターでの「椿姫=茶花女」の公演が終わり、鳥取へ行った。鳥取大学の友人に依頼された講演のためである。その最後の締めくくりに東日本大震災直後しばらくのことに触れ、マスコミの報道に死体の写真や映像が出てこない、見せられたのは建物の瓦礫が主である、建物が壊されたから自然が恐ろしいのではなく、人間を通常ではない死に方に追い込むから恐ろしいのだ、その実態をなぜ報道しなかったのか、こんな不思議なことはない、これは日本国民にとっての大失態ではないかと話した。その講演会の後の懇談の席でのことである。
 私は子供の頃、海の近くで育っている。海の波がどれほど激しく変化するものであり、恐ろしいかは知っている。実際に浜辺に打ち上げられた死体も目撃したこともある。しかし大多数の日本人は、恐らく海水浴に行ったときぐらいにしか海に接することはないから、海というものの多面的な顔を身近に感じたことはないだろう。ましてや、水ぶくれや手足の切断されたような死体を見ることは滅多にない。
 今回の大震災では、浜辺に多数の死体がさまざまな姿で並んだという。わたしは一瞬でもいいからその光景を見たかったと思っていた。自国の報道で接した外国の友人が、来日した折に、その光景を話すのを聞く時ほど、当事国の国民としての情けなさを味わったこともないのである。
 こんなに見事に、死体の映像が報道されなかったのは、誰が、いつ、どうして決めたのか興味が湧く。私たちは今でも広島や長崎、あるいはアウシュヴィッツの死者の映像は見られるのである。その光景はいつ見てもショック、いやショックなどという言葉は通り越している。しかしそのことによって私は、政治権力や差別感情、あるいは科学技術などというものがどれほど恐ろしいかを、たえず学んでこれたのである。報道には報道なりの考えがあったのであろうが、わたし自身としては残念でならなかった。人間には多様な死に方があり、死んでしまうと人間も瓦礫にすぎない、ということを再確認できなかったからである。
 確かに私も、悲惨な死体には目を背ける。死体だけではない、自動車事故でケガをして、大量の血を流しながら、痛さに道路上をのたうちまわっている若者に出会い、手足がすくんでしまったこともある。瞬間的に現れ出る、自分の臆病さや生理的な弱さに哀しい思いをしたことはあるのである。しかし、そういう時でも、臆病さや弱さを跳ね返し、目の前に起こっていることをしっかりと見届けなければいけないという勇気を手にしたこともある。そのことによって、人間という存在についての見方を、実際に教えられた実感はある。
 震災直後にすぐ現場に駆けつけないで、今頃こんなことを言うのも、死んだ人たちやその関係者に対して申し訳ない気もあるが、現場の光景は今までの経験からではとても想像できないと思え、やはり知りたい、いや、できたら現場に立ち会いたかったと思うのである。いずれかはこの日本で、一般の人たちがそれらの映像を見ることが可能になるのであろうか。最近はその光景を知っておくのは、日本人としての義務のような気もしている。