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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月18日 最終コース

  いよいよ明日からSCOTサマー・シーズンが始まる。私が利賀村で最初に作品を発表したのが1976年。それから36年も経っているが、今年のように自分の作品だけを、五本も発表するのは初めてである。新作が一本、再演物が四本、ギリシャ悲劇の「エレクトラ」を除き、四本には共通の主調音が流れている。日本ならびに日本人とは、どんな種類の国であり、そこにはどういう人間性をそなえた人たちが集まっているのか、それを考察していることである。この四本を選んだのには、東日本大震災の影響が作用している。
 「世界の果てからこんにちは」と「シラノ・ド・ベルジュラック」は日本という国の歴史的な成り立ちに触れてみようとし、「別冊 谷崎潤一郎」と新作の「新々・帰ってきた日本」は、日本人の心的な傾向を考えたいとする作品になっている。特に後者の二本は、集団を結束させようとする共通の価値観、それを支える論理や心情に虚偽を嗅ぎ付け、手段的に行動することを忌避する感性、即時的な生活の安定や快楽、人間関係での心の安らぎを根強く追い求める日本人の感性、それがどんな形でどんな場面に現れてくるかを舞台化しようとしている。集団であれ個人であれ、経済的な利益を手に入れる人生、そのための手段を最良の価値とする現在のグローバル社会の内では、行きはぐれ落ちこぼれやすい難民的な感性とでもいうべきものである。現代の日本には、もう完全に消えてしまったものか、それとも潜在的にはまだまだ生き続けているものか、一時代前の日本人芸術家が、この感性にいかに深くこだわり、そこにどんな人間性と正当性の理屈を見いだそうとしていたかに焦点をしぼり、考察してみようとしたと言ってもいいかもしれない。
 ともかく、よく悩みよく考えた過去の日本人芸術家の考察を、現代的な視点、果たしてこの悩みや考え方はまだ意味があるのかどうか、問い尋ねてみたものである。そしてあらためて、純文学系の谷崎潤一郎と大衆文学系の長谷川伸、このまったく対照的に存在したかのように見なされている作家にも、ヤハリ、ニホンジン、と思わせる共通性のあることにいささか驚き、ちょっとした感慨に襲われている現在である。
 今年はまた、長らく中断していた私の訓練方法を教える事業も再開した。コンピューター時代になり、劇団と私のホームページを開設したら諸外国の演劇人から、利賀村で私から直接に訓練を学びたいという要請が、たいへん多く寄せられたからである。
 これまで、訓練だけを劇団員以外の人たちに教えるのを、止めていたのにはそれなりの理由がある。作品を作ることと、人材を養成することとはまったく違う能力と時間を必要とするし、自分の作品に出演する俳優ではない人たちに、私の訓練を教えることの意味に疑念を持っていたからである。私の訓練は、一般的に通用している演劇のための訓練ではない。鈴木忠志の演劇観に基づいて、それを具体化するために考案されたものである。訓練で身につけたことは、舞台上の演技に密接に通じあわなければ意味がない。むろん私の訓練によって、身体所作や発声の強度を身につけることはできる。しかしそれは、芸術の創作ではないので、そんなことだけに労力と時間を割くのは勿体ないと思っていたのである。
 私の演劇観を理解し、私の舞台作品の質に共鳴した演出家の舞台作品の中でしか、この俳優訓練の本当の真価は発揮できない。だから俳優ではなく、演出家に私の訓練の考え方を理解し、かつ身体で体得してもらいたい、これが私の正直な心境だった。
 今年、訓練を受けたいと要望してきた人たちには、今までになく多くの演出家がいた。しかも私の舞台をよく観劇し、かつ劇団のリーダーだったり、学校でも教えている人たちである。ヨシ、モウイチド、ヤッテミルカ、という気になったのである。
 この利賀村には現在、10カ国以上の演劇人が滞在している。朝と昼は訓練、夜は私の舞台稽古を見たり、深夜まで演劇論を闘わせたりしている。それを見ていると、この利賀村が再び世界に開かれるだけではなく、新しい時代の世界的芸術拠点になれるかも、という希望も湧いてくるような気がしている。どんどん元気を失っていく日本で、なんとかここだけは文化活動の分野で、いつも上機嫌で活動している場所になれば。自分の年齢を考えると、利賀村での活動40年を目指した、最終コースに踏み込んできた感がある。