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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月25日 母の東西  

 お前はこの胸からお乳をすすって大きくなったんだ。お前は歯ぐきで私の乳首をかんで、いつもそのまま眠りこけて、それでもおっぱいにすがりついて離れなかった。‥‥この胸が刺せるかい!? ええ、刺せるのかい!? オレステス!
 ホーフマンスタールの戯曲「エレクトラ」は、ギリシャ悲劇に描かれる主要な武将一族、アトレウス一家の崩壊の物語りを下敷きにしている。その戯曲の中でホーフマンスタールは、息子のオレステスに殺される直前の母親クリテムネストラに、上記の言葉を言わせた。日本の戯曲には、描かれたことのない激しい場面と言葉である。
 日本の男、とりわけ青少年にとっての母親は故郷、常に帰って行く場所になっている。たとえフィクションであっても、殺す対象にするなどとはとんでもない。どんなに悪い母親や息子だとしても、せいぜい恨みつらみを言い合い、両者ともに泣いて別れて終わるようにしなければいけない。それが、日本の母と子による諍いの伝統的な劇風景であろう。
 第二次大戦直後に、「母三人」という映画があって、そのキャッチ・コピーが、ハンカチを三枚ご用意くださいだったとか。日本人は本当に「母」が好きである。なかなか憎めない。それだけではなく、「母」が登場したら観客は必ずシンミリ。不思議なことに、母親が三人も登場すれば、それだけでも三倍も泣かなければならないらしい。だから、母親まで登場させて、観客を泣かすことができなかったら、その劇作家は何はともあれ才能が無いし、日本国家にとっての不孝者である。
 私の子供時代の学校には、一寸でもワルサをすると、オカアサンガ、ナクゾ! を決まり文句にして叱る先生がいた。私もこの言葉が備えている威力、イメージとしての「母」の力を、利用させてもらったことがないわけではないが、あまりそればかりに頼られてもである。しかし今でも警察は、あろうことか現実の母親の存在までも利用する。警察は銃を持って立て籠もった凶悪犯人を説得する役回りを、母親に押し付けたりする。いつだったか、警察の要請で母親が息子の実名を呼んで、世間に迷惑をかけないで! みたいなことを叫んでいる光景を、テレビの画面で見たことがある。もちろん母親は泣いている。それを見たときには「母」に対してなんと残酷なことをするのか、現実の母親までも晒しものにしやがってと、警察に怒れてきて、母親に忠告してやりたくなった。警察は情けなくも、私を利用している。堂々と出て来て警察に反省を促してやりなさい、と息子に言ってみたらどうだろうかと。警察ともあろうものが、こんな姑息な作戦で、大の男を改心させ、物事を無事におさめようとするのは、哀しいだけではなく、時代錯誤の感じもするのである。
 今夏のSCOTサマー・シーズンの演目は、「世界の果てからこんにちは」と「別冊 谷崎潤一郎」のように、男性が中心になって築きあげてきた家父長制社会、その秩序形成論理の綻びを扱ったものと、「エレクトラ」と「新々・帰ってきた日本」のように、母親と子供の血縁関係の破綻を扱ったものの両極に分かれている。それだけではなく、後者の二作には、西洋と日本の母親と子供との健康な関係が崩壊する仕方の違いを、対照的に読み取れるようにしてある。
 「エレクトラ」はギリシャ悲劇でもホーフマンスタールでも、父親を殺された息子による、復讐の母親殺しの物語りであるところは同じである。「新々・帰ってきた日本」は長谷川伸の「瞼の母」が下敷きである。これは息子の母親捜しと「母」への決別の物語りである。これらの戯曲の母親は、否定的な存在として登場してくるが、私の舞台では演出上、現実の親子関係は具体的に存在していない。息子が母親を殺したり、母親と決別する最後の時に口にする言葉は、そのままに残してある。母親を刺し殺す決意をしたオレステスが、姉のエレクトラに言う言葉、<ただその前に、お母さんの目を見ないようにしなければ>と、「瞼の母」の主人公忠太郎が、ついに出会えた母親と、会う以前に瞼の中で描いていた「母」のイメージとは違っていたと述懐する言葉である。ただし、これらの言葉が語られるシチュエーションは、原作戯曲のそれとはまったく異なっている。
 洋の東西を問わず、人間にとっての「母」の存在は大きい。人間が現実であれイメージの中であれ、「母」から自立することの難しさを、演劇は描きつづけてきた。血の繋がりだけは、理屈を越えた人間の一番強い絆だと、私などが少し驚くほどに、主張している面がある。
 一昔前に、アメリカの大統領レーガンは、家族の価値の再評価をスローガンに人気をえた。それに反対する根拠は何も無いが、血縁以外の他人のことを大切に考えることができるのが、人間という動物の優れたところだということも、忘れられては困ると感じる昨今でもある。