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鈴木忠志見たり・聴いたり

9月18日 ヤメナサイ

 ダカラ、ヤメナサイ! と言う以外にはない。皆がドッと笑う。それにつられて私も笑う。本当はもう少し深刻なことで、朗らかに笑いあっていても困ることである。しかし、後で考えれば、お互いにシミジミしても仕方がない。観客席には東京から来た演劇人、評論家、行政官が大勢いた。その人たちも笑っているのだから、不思議な光景である。
 SCOTサマー・シーズンの最終日、私への観客からの質問、東京で行われている若い人たちの演劇、それは「外部世界」を喪失した閉じられた狭い演劇だと思うが、これが国際的に活動していくためには、何が必要でどんな応援をすべきか、鈴木さんから何かアドバイスを、に答えた結語である。
 私は元来、他人への親切な助言を最もニガテとする人間、自分以外の演劇に関しては、二、三の例外を除き、殆ど批判しかしてこなかった。それを止めて、何か言おうとすれば必ず、オレナラ、コウスルという話にならざるを得ない。聞く人にとっては、いずれにしろ自慢話しにしか受け取れない。だから冒頭に、正直に言っておいたのである。私は日本の演劇人に興味がないから、この利賀村にいるんですよ。
 質問をしてくれた人には申し訳なかったが、東京の若い演劇は殆ど見ていない。それなのに東京の若い演劇人に先輩面をして、もっともらしいことを言うのもイヤラシイ。そこで結論は、そんな状況なら演劇はヤメタホウガイイ。それ以外の優しい言葉は、東京の暇なお喋り好きの劇評家たちが、親切面をして言ってくれる筈である。
 演劇はもともと外部世界、自分とは異なった価値観や行動のルールを保持している他者、柳田国男的に言えば、信仰を等しくせざる他者というものの存在を、はっきり見届けようとする行為として出発している。むろん、フランスの詩人ランボーを持ち出すまでもなく、自分という存在も他者である。よくは解らない他者の世界、纏い付く自分という存在への異和感、そういう人間の関係の在り方に、好奇心を持った人たちに必要とされた。確固とした自分を捜し出して安心したい、他人に愛されて幸せ、などという人には無縁のものだったのである。東京の幸せな演劇人にいまさら、孤独や不安を前提に! などと言ったら孤独や不安が恥ずかしがる。
 SCOTサマー・シーズンが終わってホッとしている。今年も沢山の観客が集まってくれた。私も物好きなことをしたが、こんな寂しい山奥によく、とあらためて感じた。いつにもまして、老若男女、多様な職業の人たちが、全国から来てくれている。時代は激しく変化していると見るのか、何も変わっていないとするのか、いずれにしろ日本だけではなく、世界中が行く末の不安定さに襲われていることは確かである。観客の人たちの舞台への反応からも、その感じは伝わってくる。
 今年は、私の活動にもまだまだなすべきことがある、という励ましをもらったようで有り難い。