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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月26日 憂鬱

 憂鬱だと思っていたものが、ついに身近に迫ってきた。スズキサン、これは市民感覚でやりましょう、とその人が言う。そんな物はマダ見たことがない。納得のいくように誰かに説明された記憶もない。ナンデスカ、ソレハ。
 相手は言う。ここはひとつ、常識的にということで。市民とは常識人のことか。この人は自分には常識があると思っているらしい。私はずっと村民感覚でしたからね、それを改めろ、と。村民感覚? それは何ですか。あなたにとっての非常識ということですよ。感覚というのは、人それぞれに違うということです。私はずっと利賀村民だったんですからね。癪に障ったから更に追い討ちをかけてやった。市民と村民で折り合いがつかないなら、じゃあ、国民感覚ということでやってみますか。唖然とした顔をしている。
 日本の政治をみるまでもない。国民などという言葉が出てきたら、なにも決まらないことを意味する。決まるとしても、とんでもなく時間がかかる。だから、何かを即決しようとしたら、橋下前大阪府知事のように、政治には独裁が必要だ! などと雄叫びをあげることになる。独裁とは大袈裟な、勝手な思い込みをして使われた言葉だが、この市民感覚だとか市民感情だとかいう言葉も、実定の水準に入らない、勝手な独り合点として、あるいは他人の扇動に付和雷同するように使われやすい言葉である。こんな言葉で、何かを協同しようなどとは、トンデモナイ。このような日本語が、おおでを振って使われるのは困ったものである。
 今年になって、外国人からの問い合わせが多い。外国人向けの訓練の教室を再開したからである。その問い合わせは、殆どメールでやって来る。私はコンピューターでも携帯でも、一切メールはやらないから、メールの宛て先は劇団の事務所である。事務局員がそれを毎朝コピーして届けてくれるのだが、その数の多さにウンザリすることがある。しかし、海を越えて届いたものだから、などと自分に言い聞かせ返事をする。相手の顔も知らず、声を聞いたことがないのだから、こちらの答え方も粗雑、だんだんと反射神経の連続運動のようになり、誰にどんな返事をしたかもすぐに忘れる。内心では、私は企業の社長ではない、と怒鳴りたくなるぐらいなのだが、それで返事を出さないとなると、相手にすまないような気持ちにもさせられ、イヤニナッテシマウ。
 むろん実際の返事も、私がコンピューターを使って送るわけではない。事務局員が代行してくれる。最近では、これは人間関係ではない、コンピューター関係であるなどと、気楽に思うようにもなってきたから困ったもの。メールの中には、私が大切に感じている人のものも混じっていたりするのである。
 事務局員の中には、仕事が好きなのか、コンピューターの機能に魅入られたのか、椅子に座って朝から晩まで画面を見続けている者もいる。よく頑張ってくれているとは思うのだが、そんなに座っていたら目や痔を悪くするよ、と注意したくなるときもある。しかしまた、私の仕事のために座っていてもくれるのだと思うと、複雑な感情を味わう。そして憂鬱になる。
 メールをやらない人が、他人のことを分かるはずはない、あなたにはメール感覚がない、メール感情やメール目線で物事を判断しましょう。まさかこんな馬鹿げた日本語を聞くことにはならないだろうが、何が起こっても不思議はない時代、メールお化けに振り回されないように、気をつけるに越したことはない。