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鈴木忠志見たり・聴いたり

11月7日 ジャパコン

 もうそろそろ、フィリピンやベトナムへ募集をかけた方がいい。日本人を相手にしていたら、食っていけないですよ、チュウサン。劇作家のつかこうへいが私に言った言葉である。日本人の役者は逃げ出すに決まっている、安い報酬を払ってでも日本人以外の人たちの方が、私の演劇に熱心に取り組むというのである。韓国が祖国の、つかこうへいらしい日本人への皮肉である。
 亡きつかこうへいは若い頃、毎日のように私の稽古を見に来た。私は戯曲の稽古をする前に、役者たちに日課の身体と声の訓練をしてもらう。スズキ・トレーニングと言われているものだが、それに立ち会った後の言である。
 こんな厳しい訓練はもう日本人には向かない、長続きしない、よっぽど金を出せばベツですけど、と彼は続ける。私も内心はそう思っていないわけではない。しかし、貧乏劇団、金を出せるわけがない、むしろ貰いたいぐらいである。それにいくら日本の若者が、金と生活の便利さに飼い馴らされたとは言っても、それだけで人生に満足しているはずもなかろう。艱難辛苦汝を玉にす、などと言うつもりはないが、少しは厳しさを求める若者もいるはずだ、という想いもあった。
 昔イギリスで危険な南極探検の隊員の募集をした。そのときの広告にワザと、報酬は少額、命も帰還も保証なし、という一文を入れたら沢山の人が来たそうだぞ。
 それは英雄になれるからですよ、チュウサンの訓練をしたって誰も英雄になれるなんて思いません。アングロサクソンは英雄志向ですからね。この訓練をしたからって、テレビや商業演劇のスターになれる訳でもなし、タダ、ツライだけ。
 しかし、アメリカでは俺の訓練はそれなりに受け入れられている。それはアメリカの若者がベトナム戦争でベトコン<南ベトナム解放民族戦線>と戦うときに、少しは役に立つかなと思ったんですよ。雨季のジャングルを移動して戦うのはツライですから。私の訓練は演劇とは関係がないというような顔をしている。懐かしい会話である。最後に私は言った。ジャパコンというのはもうないのかな。日本解放民族戦線の意味ではない。日本の根性という意味である。クダラナイ駄洒落であった。
 この会話は40年も前のことだが、今でもおかしい。それだけではなく、日本人社会の一面を突いてはいる。相撲界を見れば一目瞭然、上位の力士は殆ど外国人である。宗教界だって同じようなものらしい。正座や座禅がイヤで、寺の跡継ぎがなかなか見つからないという。仏門への入門者を増やすために、楽に座れる椅子を考案した宗派があるとか。ともかく日本人は、身体的にツライことを避けたい、そうできるのだったら、初期の目的を変更したり、先人の知恵の蓄積を軽視してもかまわない、というほどになってしまった。
 宵・暁の声をつかひ、心中に願力を起こして、一期の堺ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。世阿弥の「風姿花伝」の一節である。
 こういう気合で、まだ私と行を共にしてくれる役者たちが、この日本に存在することを感謝せねばなるまい。いついかなる理由でか、挫折が訪れる世界を生きるのであるから。世阿弥にしたって、一度は能役者を辞めたいという心にならなかったら、こんな文章を書くこともなかっただろう。