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鈴木忠志見たり・聴いたり

11月14日 難題

 私の俳優訓練の方法については、いろいろな意見を目にする。褒められてもコソバユイものがあるが、批判的なものには、吹き出したくなるようなものもある。私の訓練を生半可に知った日本の演劇関係者のものに多い。
 私の訓練は歌舞伎や能あるいはクラシック・バレエのように、形を習得することによって演技の上達を図るものではない。個人の身体能力(音声を含めた)の可能性、その充全な発現のためにある。そのために、身体の内部の不自由、あるいは不完全燃焼として感じられるものの原因を究明するものである。だから訓練は、まず個人の特殊性としての欠陥の可視化、あるいは可触化から始まる。呼吸や重心のコントロール能力の欠陥、エネルギー燃焼の少なさ、非効率という欠陥などである。外国の演劇人がこれを、CTスキャンや血液検査による診断に譬える所以である。
 欠陥、これを目的への障害としてもよいが、それとどう向き合い、どう乗り越えるのか、その方法の発見、そこに個人の能力の独自性、いわゆる才能の発露を見ている。だから、訓練の過程で欠陥を露呈させるのは当然で、むしろそれを促進するのが、初心者へのこの訓練の目的になっていると言ってもよいぐらいである。そのことをして、私の訓練を批判的に見なす人たちがいるが、本末転倒である。欠陥は解決すべき課題として、故意に顕在化させたものなのだから。見えてきた欠陥を生み出した事態、見えない身体内部にある原因を感受する能力を発達させるのが、私の訓練の要である。
 しばらく前、American Theatreというアメリカの演劇雑誌に、女優エレン・ローレンが私の訓練についての一文を寄稿している。彼女は私の舞台のいくつかの主役を演じているだけではなく、ニューヨークのジュリアード音楽院やコロンビア大学で、私の訓練を長いこと教えてきた。彼女の文章の一節を引用する。
 「この訓練に組み込まれている身体への様々な試みは、舞台上に存在するときに必要な、日常とは異なった精神的・身体的な状態を創造するために作られている。よくムーブメントのクラスと誤解されることがあるが、この訓練はもっと複雑な論理を持っている。動き<ムーブメント>は、動かない状態における感覚を創造するためにある。鈴木はよく、俳優を回転する独楽<こま>に譬える。独楽は最速で回転するとき、もっとも冷静に静止しているように見える。
 訓練をすることによって見えてくる問題は、単純に俳優自身の内にある問題である。訓練は俳優自身が抱えている問題を明らかにする。問題をどう乗り越えるかは、俳優個人が発見するものである。自分自身の問題は成長するにつれて変わってくるので、自らの状態を測る客観的な基準を持つことは大変に重要なことである。確実なのは、問題がなくなることは決してない、ただ変わるということである。」
 作業仮説<working hypothesis>としての私の訓練の一面を、見事に言い表してくれている。
 見えない身体感覚をいかに可視的・可触的にし、それを共有することができるか、集団作業としての舞台芸術に課せられた最大の難題である。スタニスラフスキーも世阿弥も、この難題に精魂を費やしたともいえる。スタニスラフスキーの「俳優修業」、世阿弥の「花鏡」には、その難題に挑戦した痕跡がよく残されている。
 見えないものを、どこまで見たとして、他人に伝え説得力を発揮できるのか、その言葉をどうやって獲得するのか、演劇にかかわる者には、その力量がいつも問われている。