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鈴木忠志見たり・聴いたり

11月23日 ヤッテミタイ

 ここ2ヶ月ばかり夜遅くに料理をしている。手の込んだものではない。カレー、スパゲッティ、オートミールの類いである。しかし、毎日やっているうちに少し凝りだして、ヘンナものが仕上がるようになった。例えば、オートミールに牛乳だけではなく、貝柱、ザーサイ、醤油を加えて煮込んだりするようになった。こう書くと食べたことのない人は、不思議な取り合わせのゲテモノのように思うだろうが、私の創る舞台と同じのこのゴッタ煮、それなりに上手くいって評判がいい。殊に外国人には珍味らしい。注文が多い。
 私の劇団は、朝10時30分から夕方の5時30分まで全員の公式稽古。6時の夕食後は俳優個人による自主稽古、スルカ、シナイカ、は個人にまかされている。しかし実際に生活しているのは山の中、冬は寒い、春や夏と違って戸外でのんびりと楽しむ所はない。疲れて宿舎で寝たり本を読んだり、勉強する人も稀にはいるが、殆どの俳優が数箇所の劇場や稽古場でそれぞれに稽古をしている。
 長時間の稽古をすることだけが良いわけではない、夜の10時ぐらいには終わりにしろ、と言ってあるのだが、深夜の12時を過ぎても自主稽古をしている俳優がいる。せっかく熱心に稽古をしているのだから、止めろと言うわけにもいかず、私は稽古が終わるのを待っていることになる。何故かと言えば、この利賀村の施設の多くは、私の劇団が専用施設として借りているとはいえ、所有者は公共団体、いつ誰が何処を使用し、いつ施錠して施設を退去したのか、私に必ず報告するしきたりにしてある。リーダーの責務としては仕方がない。
 しかし正直なところ、夕食から最後の報告がくるまでの時間が長い。自分の勉強もないわけではないが、退屈もする。そこで思いついたのが、夜遅くまで稽古をしている俳優のための食事の用意だったのである。しかしこれは必ずしも、俳優への親切心としての行為として始めたと思っているわけではない。
 暗黒舞踏の創始者、故土方巽と二人だけで食事をしたことがある。座卓を挟んで座ったところで、私は彼に言った。少し太ったね。彼はこんな答えを返してきたのである。これはユルンダンダヨ、スズキサン。しばらく前に、若い弟子の一人が深刻な顔をしてやって来て、先生の許を去りたいと言う。いろんな理屈を言った後での別れぎわに、先生には即席ラーメンしか食わせてもらえなかった、と言ったんだけどね。イヤー、傷ついちゃったんだよ、その時。ソレデ、ナニガワルイ、と即座に言えなかったんだから、心身ともユルンダンダヨ。過激な舞台を踊る土方とは思えない意表をつく言葉であった。
 この土方巽の発言を聞いたとき、私はもう一人の人物の言葉を思い出していた。それは明治大正昭和と歌舞伎界の第一人者として活躍した、六代目菊五郎の著作「芸」の一節である。
 毎日毎日団十郎が前へ座って見ている、私は仕方がなく一生懸命に踊って、幸いによく出来た日は団十郎も喜んでくれて、「今日はよく覚えたな、いつもこの呼吸でやるのだ」といわれるので、自然覚えなければならなくなる教え方で、しかもよく出来た日には団十郎と同じ御馳走が出るのですが、出来が悪いと第一に口を利かないばかりか、団十郎のお膳には鯛の刺身がついていても、私たちの方はお惣菜だけのこともあったので、これは僻目かも知れませんけれど、矢っ張り鯛の刺身が付けてもらいたいために勉強をしたものです。それで踊がうまく出来て、一週間刺身が続いて嬉しいと思っていると、あとの十日がまたお惣菜に逆戻りなどという、そんなことも修行の一つであったように思われます。
 ここまではっきりとした差別が出来るのは羨ましい、ヤッテミタイかぎり。しかし最近になって、私のはまったく逆だということに気がついた。私も稽古場ではダメな俳優を怒鳴りつける。もう少し自分でケイコヲシテコイ! そう言われた俳優は、夜遅くまで稽古をする。当然のことである。しかしそうすると私は結局、ダメな俳優が良くなるのを待ちながら、食事の用意をしていたことになる。団十郎とは反対のことをしていたわけである。
 民主主義教育とやらに毒されて、私も完全にユルンダのかもしれないが、イマサラ変更も出来ない。時代も時代である。俳優も声をかけてくれるのを待ち望んでいるフンイキもある。稽古の後に腹が減っていても、何も食えなかった若い頃のわびしい記憶も、蘇ったりしてもくるのである。これはダメな俳優が、私の期待に応えて良くなろうとしている努力に報いる当然の行為である、などと屁理屈をつけては、夜遅くに俳優と食事をし、自主稽古の感想などを聞いて結構オイシク退屈を紛らわしている。自分の楽しみのためにしてもいるのである。
 こんな光景を土方巽が眺めたら、即座に言うかもしれない。スズキサン、アンタモ、トシヲトッタネェー。そうしたらロシアが生んだ世界的な演出家、スタニスラフスキーの言葉でも借りる以外にはないかもしれない。演出家は俳優の捨て石である。