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鈴木忠志見たり・聴いたり

12月21日 息を詰める 

  吉祥寺シアターで公演をしている。利賀村の劇場で同じ作品を観劇した人から、演出の変更があったのかどうかという質問を受ける。舞台の印象がずいぶんと違ったらしい。私の舞台は劇場が変われば、俳優の登退場の仕方や装置や置物への照明の当て方も変わる。だから舞台の雰囲気とそれから受ける印象は劇場ごとに違ってくる。もちろん、演技も若干は変わる。ただ演技の場合は、台詞を変えたりすることはないが、身体への集中の質が変わるのである。殊に野外劇場と屋内の小劇場では、身体への意識は変えざるを得ない。
 例えば、針の穴に糸を通す仕草を考えてみる。通常、こういう日常的な光景を含んでいる演劇作品の上演は、野外劇場には相応しくない。野外劇場での観客の目には、山や木や星の輝きすらも映っている。時には風が吹き、草木の擦れ合う音も聞こえたりする。身体を取り巻く環境、それが観客の身体に与える情報の量はたいへん多い。だから日常の光景の演技は、それがその作品の重要な場面のものだったとしても、観客の注意を引きにくい。演出家としての俳優への注文は、腰を据えて深く呼吸をすること、吸い込んだ息をすべて吐き出す勢いで、力強く手を動かし、かつ全身に音が響鳴するように言葉を発してくれということになる。自然に対する拮抗意識が強くならざるを得ない。ただ対象に集中し、その仕草の再現をしても、観客に身体のエネルギーは届かない。
 これが屋内の小劇場となると、針の穴に糸を通すことは、逆説的な意識の集中とでも言うべきか、針の穴がどんなに小さいか、その穴に柔らかな植物繊維である糸を通すために、日常ではどんな身体のコントロールをしているのか、まずこの身体的な集中の質を良く理解するところから始めなければならない。
 人間でも動物でも同じことだが、対象物に集中し行動を起こす時には、殆どの場合に身体を動かさないようにする。そのために沈黙し呼吸を自己支配しようとする。要するにその動作の間、呼吸を止める=息を詰めるのである。なぜなら喋ったり息をする時に上半身が動き、手もそれに連動して揺れるからである。針と糸を持つ手のいずれかが揺れても、針の穴に糸が通ることはない。この対象物へ集中した時の息の詰め方、身体への集中の仕方は、小空間に同在している人たちにはすぐさま共有されるものである。どこで呼吸をし、どこまで息を詰める動作をし、どのように息を吐き出しながら言葉を口にするのか、そしてまた息を吸うのか、この種類の身体的集中の連続が、室内小空間での演技の前提である。いずれにしろ、野外であれ屋内であれ、必要とされる集中力は呼吸への自己支配、自分の身体への意識的な抑圧が要だということに変わりはない。
 息が合うという言葉がある。アイツとオレとはイキガアッテネ、などと使ったりする。舞台と観客との息が合う、劇場とはなによりもこれを目的とする空間である。これが成立すれば、一つの場は単なる空間ではなく劇場に変容する。しかし俳優という人間が、自分だけで集中力の質をそこまで強度に高めることはなかなか難しい。それは他人を巻き込み、共に精神的な高揚感を生きるために身体的な抑圧、あるときには苦痛かもしれないが、それを意識的に同伴しなければ成り立たないことだからである。抑圧と苦痛、これは現代人が最も避けたがるものであるが、しかし、舞台から感動を与える俳優たちの演技の背後には、必ずこうした抑圧や苦痛との闘いの蓄積が存在するのである。
 六代目中村歌右衛門が、あれだけの演技ができるのは楽しいでしょうね、と聞かれて、いいえ、苦しゅうございます、でも辞められないのですから、やはり好きなんでございましょう、と答えた。これは一流のスポーツ選手でも同じだろう。苦しくないことがある筈がないのである。
 しかし、私の同業者である現代劇の人たち、とりわけ東京の俳優たちは、楽しいのが演技だというような顔をして舞台に立っている。演技が集団的な鍛錬を必要とする専門家の仕事ではなく、手軽で個人的な趣味の世界に転化した様相の一面だと言っていいかもしれない。