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鈴木忠志見たり・聴いたり

1月6日 崖っぷち

 アメリカの作家レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説に、If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. という言葉がある。角川映画のキャッチコピーにまで使われ、当時の日本人には少なからずウケタ。その時の日本語では、男はタフでなければ生きて行けない、優しくなれなければ生きている資格がない、と少しニュアンスが変えられていた。いずれにしろ、現在の世の中で、こんな言葉をそのまま口に出すのは、やや気恥ずかしい感じのものだが、それなりの名文句、日本人には心地よい響きを与えたようである。こんなに<優しさ>に思い入れする国民もいないからである。
 善意と優しさ、これを感じさえすれば、どんな嘘をつかれても許容範囲、日本人は他人をあからさまに非難しないといった趣がある。悪意からしたことではない、と自分に言いきかせて、トガッタ心を穏やかに収める。しかし実際は、優しさや善意といった代物こそが問題、事実を隠蔽したり嘘をつかれて騙されるのも、このお蔭であることも多い。また、この二つの言葉を売り物にしている人間ほど、自己満足の権化、始末に負えないものもないのである。
 除雪作業の合間にテレビを見る。どのテレビ局も、暮れから正月にかけて、福島原発の過去、現在、未来について、政治家、官僚、学者、評論家などによる討論、福島原発事故とは何か、を検証する報道番組を流していた。
 それらの番組では、東京電力と政府が事実を隠蔽したり、虚偽の見解を発表したり、また法律どおりに物事を処理しなかったということが、今回の事故の際立った特徴であることを多くの出席者が認めていた。また、それを知りながら事実を究明せず、東京電力や政府見解をそのままに報道した、マスコミの批判精神の欠如と誤報に対する無責任な態度、これからはニュースを信じてはいけないなどと発言する人もいた。
 ではなぜ、東京電力や政府は、そのような態度を取ったのか、それは国民の心に不安を、日常生活に混乱をもたらさないための配慮だったと言う人がいるから驚く。東京電力や政府の言動は、国民への善意と優しさによる配慮だったというのである。
 あらためてテレビの画面でこういう発言に接すると、やはり奇妙な感覚を味わう。この人たちの発言内容からすれば、この事故は人災、多くの人命や財産を無にさせる殺人や詐欺にも等しい行為が行われていたのである。過去に遡れば、贈収賄、公金横領、過失致死に近いことだってあったかもしれない。責任者を特定し、すぐに逮捕すべきだという議論があってしかるべきなのに、そこまでは誰も踏み込まない。これは刑事事件だという人は誰もいないのである。コノクニハ、ダメダ! とただ議論は盛り上がって賑やか、これぞ日本独特のノドカナ光景としか言いようがない。国民は検察や検察審査会のインチキを目の当たりにしてきたばかりである。今こそ検察の使命と力量を公正に示せ、という人が一人ぐらいいてもよさそうなのにである。
 実際のところ、昨年は政治家や官僚、検察官や警察官の事実隠蔽や虚偽行為を、ウンザリするほど見せつけられてきた。その上に報道の無責任までも。むろん私も、個人はいざ知らず、この国の未来に夢がないことは承知している。せめてただ、国破れても個人あり、という気概を持って生きる若い人たちが、多く輩出するかどうかだけが希望だと思っている。
 国家の指導的な地位にある政治家や財界人が私利私欲のために、あるいは公正を背負うべき検察や警察が組織を守るために、国民を裏切ったり、騙すような言動が常態として繰り返されている国家である。いまさら、日本の行く末を憂う空しさは身にしみている。
 チャンドラーの言葉をモジッテ言えば、男は嘘をつかなければ生きて行けない、他人に優しかったら生きている資格がない、政界や財界にはこの手の指導者たちが充ち溢れている。この言葉そのままにグローバリゼーションの渦中を得意げに生きているように見えるのである。
 日本国民はこういう指導者たちに先導され、険しい国際関係の中を、この先もズルズルと歩きつづけるのであろうか。それとも、これまでになかったこの国の独自の未来を、新しく発見・創造することができるのだろうか。勇気と洞察力、そして責任感のあるリーダーを、日本国民は出現させることができるのかどうか、今年の日本は崖っぷちの一年になるような予感がする。