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鈴木忠志見たり・聴いたり

1月22日 興味津々

 スピーチの時に、冗談を入れるのが、どうしてそんなに上手なのか。静岡県舞台芸術センターの芸術公園、竹林の間の小径を歩きながら、私は当時のロシアの文化大臣シュヴィトコイに尋ねた。10年ほど前のことである。スターリン政権下の子供の頃、腹が減ってひもじくて仕方がない。仲間の子供たちと水を飲みながら、いつも冗談を言いあっていた。ひもじさを忘れようと、そうして遊んでいたんだよ。シュヴィトコイは演劇界出身である。
 この感じは分る。私も第二次世界大戦で日本が敗れた時は田舎の小学校一年生。学校が終わると、サテ、ナニヲスルカ! 仲の良い友達と野原で暗くなるまで、遊ぶ以外にはない。ただフザケテ遊ぶのである。この時に、ヘンナ、オモシロイヤツが仲間に加わっている時ほど、アリガタイことはなかった。笑わせ、娯しませてくれるから、多少なりともひもじさを忘れて、時間が過ぎるのである。
 昨日、北京から利賀へ帰る。中国国立中央戯劇学院で、日本とアメリカの男優、韓国の女優、3人をアシスタントに連れ、25人の演技部の俳優に訓練をしてきた。今年の10月には北京で「リア王」を演出する。そのためのオーディションを兼ねての訓練である。5月にはその全員が利賀村に3週間滞在、実際の稽古が始まる。中国人の俳優と共にアシスタントで同行した3人の俳優が加わるから、舞台は英語、日本語、韓国語、中国語の四ヶ国語が飛び交うものになる。
 このオーディションを兼ねた訓練を始める前に、学院の院長や主任教授など多くの先生に、キビシクヤッテクレ!! と言われる。あまりに多くの人が同じことを言うので、不思議に思い尋ねてみた。答えは同じ。彼らは一人っ子政策になって生まれたから、両親に甘やかされて育っている。心が弱いというのである。
 確かに、訓練を始めて確認する。彼らの振る舞いは育ちが良く、適応力もあって素直、良家の子女であることは一目瞭然。もちろん、ほとんどが美男美女。そのフンイキは、私がかつて教えたことのあるニューヨークのジュリアード音楽院やモスクワ芸術座の俳優たちと比較しても、それほどの違いはない。1万人に50人という凄まじい競争をくぐり抜けて選抜されたとはいえ、ハイソサエティ温室栽培エリートの印象は拭えない。だから、身体から発するエネルギーは弱い。すこし野生味が足りない。それでも、同世代の日本の俳優と比べたらダンチ。日本と違い、基礎的な身体の教養、その教育が身体に生きているから上達は早い。世界の演劇界も、コミュニケーション・システムのデジタル化とグローバル経済の荒波に揉まれたが、その渦中で日本の現代演劇は、商業主義の浸透と、未来を見据えた文化政策の欠落のために、貴重な演劇財産も押し流されてしまったかの感がある。
 私の訓練方法によって演技の仕方を教えながら、一昔前の日本、否、私の同世代の世界の演劇人のことを思い出す。演劇人になろうなんて人たちは、どこの国でも孤独な貧乏人だった。あるいは、大金持ちや社会的地位の高い親の息子や娘で、父親の生き方や家庭の在り方に反抗して家族と縁が切れて孤立、貧乏を自ら選んだ人かのどちらかである。金があって喰うに困らず、親の理解と暖かい応援があって演劇活動ができるなどとは、かつては思いも及ばなかった。私も恥ずかしながら、演劇に身をまかせた途端に親に勘当され、30歳まではいたって貧乏、夜10時から朝5時まではアルバイトをして喰いつないでいた頃がある。
 中国で教えながら、若い演劇人たちを取り巻くこの現象は、演劇の社会的役割と地位が向上したためなのか、低下したためなのか、中国演劇界の今後はどうなるのか。その力量にはキョウミ、シンシンのところがある。