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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月3日 観・見・感

 自分の周囲の状況を良く観察すること、その中で自分が起こす行動の対象をしっかりと見定めること、行動を起こしたら自分の身体はどのような状態に置かれるのか、その時に移動している重心をすばやく感知していくこと、これは我々の日常生活でも行っていることである。しかし、観察すること、見ること、感知すること、この集中能力が、日常と比較して異様に強く特殊化されたのが、一流の舞台芸術家やスポーツ選手である。あるいは、真剣を手にした武士の果たし合いを想い浮かべてもよい。勝敗はこの三つの言葉が表す身体的集中能力によって決まる。そしてスピード。ただし、この勝負は一瞬に近いが、舞台芸術やスポーツの優劣には、これにエネルギーの強さ、持続する体力が要る。当然、長時間の呼吸の支配能力を鍛える鍛錬が要求される。 
 前回のブログで、重心が不安定な俳優のことを書いた。その身体の状態を表すのに、地震の際に起きる地面の液状化現象を比喩として使った。しかしこの比喩では、コトの一面だけが強調されすぎるように感じる。下半身が動かなければすべて良し、というわけではないからである。固定を前提とする安定と、移動を前提とする安定、この両者の重心への意識の違いを知ることが大切。建築物と身体、同じ物体とはいえ安定の意味が違うのである。
 世界的に学ばれることになった私の訓練方法、スズキ・トレーニング・メソッドの初心者には、まず身体の安定を強めるための動きを徹底して行う。そのために重心をいかにコントロールするかということを教える。人間が行い得るあらゆる足と脚の動きで、上半身を上下させない水平移動をする。ただし、線的に連続移動するのではなく、同じ動きを反復しながら移動し、一回毎の動きにブレーキをかけて静止し、再び動くのである。だから同じ動きをしていても、一回毎の動きは独立しながら、反復されて連続になる。
 この動きと動きのわずかな瞬間の静止に、その人の身体的な集中能力が浮かび上がる。端的に言えば、見えない重心の動きへの感知能力と支配能力が分かるのである。重心のすばやい動きに一回毎にブレーキをかける集中が肝心、ハイスピードで走る高級車と同じ能力を目指している。走る時の安定だけではなく、ブレーキの性能もすばらしく、急停止しても安定が大事。もちろん、デザインが美しければ、なお良いというわけである。
 訓練の時に、この安定という概念を強調し過ぎると必ず起こる現象がある。すばやく力強く動き、身体を安定させることを要求すると、膝を深く曲げ、腰を低くする人が多くなる。重心が低ければそれだけ安定するという先入観があってそうなるのだが、こういう人は下半身に力が入り過ぎる傾向があって、次の動きに移行するときにスムーズに行かず、足を引き上げるように腰に力を入れる。そのために、上半身がギクシャクと揺れる。静止の時の安定と移動の時の安定が同時に考えられていないのである。下半身の液状化を避けようと、重心の位置までコンクリートを流し込んで固めてしまうので、下半身と上半身の有機的な繋がりが遠ざかっている。
 俳優の身体は、下半身の液状化で上半身が不安定になるのも困るが、下半身のコンクリート状化で重心の移動が堅く不自由になるのも困るのである。
 剣の達人、宮本武蔵は言う。太刀にても手にても、いつくという事をきらふ。いつくは死ぬる手也。<いつく>は<居付>で、動きが止まり滞ることだそうである。こういう状態を武蔵は<死ぬる>という言葉で説明しているが、精神でも居付きだしたら、年貢の納め時であることに変わりはない。