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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月14日 曖昧

 自民党の全盛時代に、幹事長や大臣を経験した現職の大物国会議員が利賀村へ来た。富山県だけではなく、中央省庁からの随行がズラリ。村長が私を紹介する、議員が秘書に言う、君、名刺を。秘書から渡された名刺を見ると、名前が違う。私は名刺を見つめて困惑。すかさず議員が言った。それは君の名刺ではないか、私のを渡しなさい。イヤー、これは失礼! この失礼は、私に対してなのか議員に対してなのかよく分からなかったが、秘書は改めて議員の名刺を差し出す。そこで秘書は朗らかに笑ったのである。そしたら、周囲にいた随行員たちも皆笑った。秘書あるいは議員の人柄によるのか、漫才のようなヤリトリのリズムの良さか、チョットシタ田舎芝居のウケだった。
 議員は夕食後に野外劇場での稽古を見る。池の対岸の山には、ちょうどHMIという白く発光する照明が当たり、山が幻想的に浮かび上がっている。舞台に立った議員は、すばらしい光景だ、俺の故郷にこんな山があるとは、まるで東山魁夷の絵のようだな。ひとしきり感嘆、そして傍らの秘書に語りかけた。オイ、東山魁夷って知ってるか。ソウデスネー、秘書は知っているともいないとも答えず、また朗らかに笑った。山の美しさに感じ入っている議員に疑義を呈したのか、賛同したのかも分からない。東山魁夷を知っているかも分からない。ともかく一歩控えて曖昧、いつも朗らかに対応するのも、タイヘンダロウナー、と感じさせられる。この時からしばらく後、この秘書は議員秘書を辞し、独立した政治家の道を歩み始めたと聞いた。差し出された名刺の違いは、自覚的な行為によるものだったのかもしれない。
 物事をはっきりとさせず曖昧にして、なお且つ朗らかさを保つ。これは日本人の伝統的な人間関係の作り方の一つではあるが、これを持続するには才能が要る。曖昧は、人間を疑心暗鬼にさせたり、心情的に暗くさせることが多い。そもそも曖も昧も、語源的には暗い様態を表す言葉だそうである。暗いから物事があやふや、はっきりと見えず不明瞭、だからこの言葉は通常、否定的な事柄に使われる。いかがわしいことや、疑わしく怪しいことに使われる。しかし、この言葉を肯定的に、堂々と使う人がいて驚いた経験もある。
 私は30年以上も前、誰も住んでいない村有の合掌造り二棟を、劇団の稽古場と宿舎に借りるために利賀村を訪れた。何度申し込んでも返事がはっきりしない。断るわけでも、貸しますと言うわけでもない。私をダシに、来る度に沢山の村人を集め、宴会で盛り上がるだけ。ナニカ、ウラガアル、ソレハナンダ、こうなると人間は不思議、かえって自分の気持ちにコダワッテ、シツコイ。曖昧な態度をするな! 黒か白かはっきり言え! とばかりに村に通ったのである。16回目にようやく村長が言った。貸しても良いです。
 私はこの時30代、村長は60代、親子ほどの違いがある。この村で演劇活動をしたい、東京から大勢の観客が来るはず、日本人だけではなく外人も来る。ホー、ナルホド、信用できないという顔をしている。なのに、ともかく貸しましょう、と言ったのである。私は勢い込んだ。スグ、ケイヤクヲ。村長はキョトンとした。新しく入村者が現れた、過疎対策の宣伝効果が上がったと思っているのに、なにを契約するのか。
 しばらくして教育長が宿を訪ねて来た。そしてこう言ったのである。鈴木先生、アレハ、マズイ。契約するということは他人になるということですよ。曖昧にしておいた方がすべてが上手くいきます。
 他人だから契約が必要なのではなく、契約すると他人になってしまう。この前提はすごい。私は他人ではなかった。日本人だからか、男同士だからか、16回も一緒に酒を飲んだからか、今でもこの答えは曖昧である。