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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月23日 聖地デルフォイ

 夜が無い、初めての感覚であった。深い峡谷に張り出すように建つレストラン、天空に舞い上がって座っている気分でラムを食いワインを飲む。気がつくと空が薄いブルーになりはじめる。朝が来たのだ。流行歌さながらのノリになり、宿に帰る。朝が来たのね、さよならね、街へ出たならべつべつね、ゆうべあんなに燃えながら‥、盛り上がりの終幕である。演劇公演の後での時間の楽しさ、それを初めて味わわせてくれたのはギリシャだった。  
 ギリシャはあなたが知っている国とは違ってしまった。ギリシャの友人の演出家テオドロス・テルゾプロスからの手紙の一節である。ギリシャは今、国家の崩壊を生きつつある。経済的破綻もさることながら、人間関係のモラルの崩壊、これが一番の危機だとも彼は言う。文化的には世界中の人たちに、計り知れないほどの贈り物をしたのに、今や他国からの度重なる借金をしなければ、国家の運営自体が難しいという。職を求めて多くの若者が海外へ移住しているらしい。祖国を見捨てる、これはどんな心境であろうか。日本の若者にも、いずれは訪れることであろうか。
 私の舞台作品が国際的に注目を浴びたのは、ギリシャの偉大な文化遺産、ギリシャ悲劇のお蔭である。私はギリシャ悲劇を素材にして幾つかの舞台を創った。その舞台の演出・演技が、ギリシャ古代劇を上演する際に重要な示唆を与えると、ヨーロッパの演劇関係者から評価され、その結果、私の初期の代表作の一つ、エウリピデス原作の「トロイアの女」は、1970年代末から80年代には毎年のようにヨーロッパの各地に招待された。
 その「トロイアの女」を、初めてギリシャで上演したのは1985年である。アテネのアクロポリス神殿の下にある野外劇場ヘロデオン、続いてアポロンの神殿のある聖地デルフォイ、そこに在るヨーロッパ文化センター主催の世界演劇祭に招待され、山上の古代競技場を舞台にして上演した。それが縁になって翌年、利賀村はデルフォイと姉妹都市の提携をした。村の有志の寄付で基金が創設され、利賀村の中学生は修学旅行で必ず行く場所になった。私の中学時代からすれば、ナント、ゼイタクナ、である。
 現在のデルフォイ市は近隣の七つの自治体が合併し、面積も人口も10倍以上に膨れあがっているが、旧デルフォイ市は人口3,000人ほど、断崖絶壁に沿って細長く展開する小さなシャレタ街であった。現在は市庁舎も移転しているらしい。利賀村も八つの町村が合併して今や名称も南砺市、大きな市の一画を占めるにすぎない。時代の転変と二つの場所の不思議な縁を感じざるをえない。
 私が利賀村で活動を開始したのが1976年、現在の人口は当時と比べて3分の1である。演劇活動自体は村外の人たちの応援もあって、支障をきたしてはいないが、生活面における行政サービスの低下は顕著である。老人の住みにくさは日増しに増している。今年のように大寒波に見舞われるとひとしお身に凍みる。公営バスすら何日も止まってしまうのである。
 あの夜の楽しさ、その日々はどうなっているだろう、夜は暗いだけか、デルフォイのすばらしい風景を思い出すと落ち着かなくなる。ギリシャ国家存亡の危機のニュースに接すると、ナンダカ、私は義理人情に背いているような心情にさせられる。長く付き合ったギリシャ悲劇の力であろうか。それとも私がまだ、利賀村での野外公演の後に、夜を吹き飛ばせとばかりに、レストラン、ボルカノで、根も葉もなく盛り上がっているからだろうか。ともかく淋しい。
 20世紀最後の10年間、何度も招かれ訪れたデルフォイの健在を願わずにはいられない。