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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月1日 惰性の洗濯

 一寸先は闇と言うが、激しく吹雪く時は、一寸先も真っ白である。今年は間断なく雪が降り続ける。玄関に出ても道路を歩いても雪の壁、いつも見慣れた風景も見ることができない。白一色というのも、美しいだけではなく、怖いものがある。
 視覚だけではなく聴覚にも異変が起きる。夜になると外界からの音がなくなる。川の音すら雪に吸われて消える。聞こえるのは自分の身体からの音だけ。夜中に屋根に積もった雪が、家を震わせながら、ゴオーという音を立てて滑り落ちていくと、寝ている時などは驚いて飛び起きることがある。揺れが激しいと暗闇では恐怖を感じる。
 今年はしんしんと降りますね、と我が家に立ち寄った村人が言う。しんしんと冷えてきましたよ、と稽古場からの帰りに劇団員が言う。利賀村にいる時ぐらいしか、聞いたり言ったりしない言葉である。<しんしん>とは漢語で<深々>と書くようである。深く静まりかえったさまや、深くしみとおることを表す言葉で、ふかぶかの深々ではない。利賀村では雪が<深々>と音も無く降り、寒さが<深々>と身に凍みるのである。
 利賀村で普段に使われているこの日常語、これをもっとも上手に芸術言語にまで昇華させて使ったのは、私の知るかぎりでは斎藤茂吉である。そこで今、思い出すのがこの二首。
 「ひた走るわが道暗ししんしんと堪えかねたるわが道くらし」「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」実に上手い所へ<しんしん>をはめ込んだものである。
 このひらがなの四文字を口に出して詠めば、その音の響きだけで、人生についての何ほどかの感慨を誘いだすように置かれている。しんしんは身体に懸かって、作者の真意の全体を支える重要な言葉に変化しているのである。この言葉をここに選んだ直感のひらめき、これには感心する。知識や思いつきだけではこうはいくまい。日常の言葉を手玉にとり、変化球にして投げてストライク、見事な投球である。茂吉には失礼かも知れぬが、後者の歌の<母>を、<国>という言葉に置き換えて詠むと、私の現在の心境にピッタシダなどと苦笑する。
 さりげなく親しんでいる物や言葉、これらを日常の文脈から切り離し、違う文脈の中に投げ込む。そして前後との関係性に於いて、今までとは異なった趣を与える。惰性化した物や言葉への感受性の洗濯とも言うべきこの作業、これが私の演出の重要な仕事の一つである。殊に私の舞台は、登場人物の生きている時間や体験している感情が、線的に物語のように流れることはなく、登場人物の生きる環境や話す言葉は、場面によってまったく違っている。それだけではなく、場面場面は、一つ一つが独立していて、しかも場面が表している時代環境や、語られる言葉の文体や語彙も、時間的な差異を示すことが多い。それを、新しい関係に作り直し、それぞれの物や言葉、さらには登場人物の生きている環境を、今ここで初めて触れるような、新鮮な味わいを与えるものにしようとする作業である。だから、場面相互の関係の組み方、一つの場面がどこに置かれるかは、作品全体の出来栄えを左右する重大事なのである。
 私が活動する日本での劇場、その殆どを設計してくれた友人の磯崎新が、初めて私の稽古場を訪れたのは、もう30年以上も前になるが、その時の感想を「様式の廃墟のうえに生まれるもの」という題名の文章に書いている。
 「それは建築の設計の現場そっくりに私にはみえる。ひとつの発語、ひとつの所作、それに衣裳や音楽までが、裸のまま寄り合わされながら、新しい関係のなかに組みこまれていく。<中略>ひとつの場所には、能、歌舞伎、流行歌、日常的な光景などのまったく無関係にみえる様式が混入している。当然ながら、上演される全体はこんな一瞬間を構成する細部の積みあげである。その細部を、彼はばらばらの様式に所属していた断片によって、ひとつの別の型へと組みあげねばならない。こんなとき定型があれば、ルーティンワークでこなせるともいえるのだろうが、鈴木忠志は敢えて気の遠くなるようなエネルギーの燃焼をささえにして、新しい関係性をつくりあげる。彼の舞台は、だから予想のつかない、不意に出現する瞬間の連続として組みたてられている」
 もっとも早い時期に、私の演出作業の特質を的確な言葉にしてくれている。それが演劇界の人からではなく、他の領域の芸術家だったことに、当時としてはいささか驚いたが、しかし振り返ってみれば、私がいつも刺激や影響を受けてきたのは、演劇人や演劇作品ではなく、文学者や音楽家や哲学者の発言やその作品だった。むろん、人との出会いのありがたさという点では、文化関係の人たちだけに限られなかったのは言うまでもない。