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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月13日 出会いの力

  記憶の思い出し方というものも難しいものである。事実は変わらないとしても、その事実を他人に話す時に、細部を示す言葉が正確でなかったり、変わってしまったりすることがある。それが他人の言動となると、なおさら正確を期そうとするのではなく、自分の好みの言い方や都合の良い言葉に、言い換える気楽さが出てしまうのであろうか。一寸したニュアンスが違ってくる。資料にあたっておくことは、やはり大事なことである。
 2月27日から3月2日までの5日間、朝日新聞の夕刊に私のインタビューが掲載された。2回目のインタビューで私は、早稲田大学近くの喫茶店モンシェリの2階に、なぜ劇団の常打小屋である、早稲田小劇場が出来上がったのかの経緯を述べた。その中で、モンシェリを借りて行われた劇団総会の議論を聞いた店主が、運動部よりすごい結束力だと感心して、建設費を出せば2階に劇場を建てて応援する、と言ったという一節がある。
 ところが、これが少し違っていたのである。店主が感心したのは、運動部ということではなく、軍隊よりもすごいということだった。この思い違いは当時の私が、軍隊という用語に素直に喜べないものを感じていたからであろうか。運動部にだって、そんなに好意を感じていた筈はないのだが、軍隊よりはマシだと思ったのか。ともかく評価されたことは良かったが、その評価の表現の仕方が気に入らなかった、軍隊とは肯定的に使用される言葉ではなかった当時の時代的な雰囲気に、私が無意識に影響されていたのかもしれない。
 モンシェリは早大正門から馬場下への道路のほぼ中間にあった。劇場とは言ってもごく小さなもので、舞台は間口3間、奥行2間、客席の収容人数は詰め込んで100人ほど、軽量鉄骨造りのものである。1966年の11月に落成した。開場記念公演は別役実作の「マッチ売りの少女」。最後の公演が、私の構成演出による「夜と時計」、1975年の12月である。翌年、劇団は10年間も活動した早稲田の地を離れ、利賀村に拠点を移したのだが、もう本当に昔のこと、現在の劇団員の半数近くが、いまだ生まれていない頃のことである。
 私は朝日新聞のインタビューを機会に、あれやこれやと昔の資料を取り出してみた。その資料の一つに、1982年に発行された「別冊新評・鈴木忠志の世界」という雑誌があった。そこに喫茶店モンシェリの店主田久保義男さんが、私を何ゆえに応援する気になったのか、事細かに書いていたのである。
 長いので要点だけを抽出すると、<話の内容はよく分からないが、各自が次々と意見を述べ、その質疑応答の猛烈さにも驚いたが、統制のよさにも感心した。私は軍隊にも行ったが、軍隊の統制は陰湿で暗いものだったが、ここにはそれがなかったので、この統制のよさに不思議な感じがした。後から了解したのは、あの雰囲気は忠さんの人柄からでてきたものだった。<中略>
  銀行から金を借り劇場はでき上がったけれど、劇団に金があるわけではなく、3年半は家賃は一万五千円でということになった。これまた問題で税務署が疑って信じてくれない。金利にもならない家賃はおかしい。裏契約があるのではないかと言う。わたしは忠さんの人柄が気にいっていたし、信用していたから口約束で話を決めた。相手が金を持っていないのだし、自分の一生のうちになにか一つや二つ、縁の下の力持ちのようなことをやりたかったからだと説明して、税務署にやっと納得してもらった>
 すっかり忘れていたことなので、新鮮かつ驚いた。そして新めて、人間の偶然の出会いの力を感じると共に、田久保さんへの感謝の気持ちが込み上げてくるのである。
 この雑誌には、利賀村を初めて訪れた時の村長、野原啓蔵さんがやはり、私との出会いのことを書いている。ここにも軍隊という言葉による評価が出てくるのだが、私よりも年長の人たちが、物事を判断する時の基準の強力な一つが、軍隊での人生経験だったのだと思い知らされるのである。
 今や私の世代を含めて、殆どの日本人に第二次世界大戦当時の軍隊経験などはない。想像もできにくくなった昔の軍隊、それはどんなものだったのであろうか。二人の文章に触れても、決して良かったとしているわけではないが、軍隊の必要性を声高に語る政治家の横行する現在、興味をそそられないこともない。野原村長は書いている。これも要約して引用する。
 <鈴木忠志氏が突然来庁されて、合掌造りを貸与願えないかとの申し出にいささか驚いたのは事実である。何も東京の新宿から、こともあろうに全国一の僻地で、しかも日本一の過疎村へ何の魅力があっての申し出であろうかと思ったからである。ここに利賀村と鈴木忠志氏との不思議な出会いがあったと今では思い出して喜んでいる。<中略>時折、私は村内外の方々に対して、本番よりも訓練の状況を御覧頂きたいとお話ししているところであります。と申しますのは、その訓練の厳しさは、私共が昔の軍隊に初年兵として入隊した当時の猛訓練に勝るとも劣らない厳しさであるということ。
 次ぎは一つの動作を定着させるまでの、肉体的精神的の基礎訓練が全員に徹底的に連日実施される素晴らしさである。
 第三には、一度訓練が終了すればさらりとして全員が、忠さん忠さんと和やかに談笑しあって、上下の隔ての全くない家庭的環境を作り出すことである>
 誉められてうれしくないことはないのだが、ここまで言われると少しは心配にはなるのである。自分ではこの程度は当然だと思っていても、何か私に無自覚や錯覚によるヤリスギがあるかもしれないと。ともかく現在の利賀村での演劇活動の発展も、野原さんが感動してくれて、富山県庁や中央省庁へ陳情に陳情を重ね、補助金を獲得し、利賀山房をはじめとした劇場群を建設してくれたお蔭である。野原さんの文章の冒頭は、人の出会いはまことに不思議である、という一節から始まっている。私もつくづくそう思うのである。芸術活動とはまったく関係のないこの二人に出会わなかったら、私の演劇人生もここまでは続かなかっただろう。
 一週間ほど前に、コンピューターのネット上で、旧早稲田小劇場を取り壊すことになったということを知った。私の劇団が去った後は、しばらくして早稲田大学が所有し、学生劇団や文化団体が使用していたようだが、先月の2月27日には閉館されたとのこと。その間46年、これで早稲田小劇場の生きた面影は、私の視覚からは消えることになる。
 この劇場の建設当時の思い出を語ったインタビューが、朝日新聞に掲載されたのが閉館翌日の2月28日である。偶然とはいえ、これも不思議な巡り合わせであった。