BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

4月19日 襲名

  襲名とはブランドとしての名跡=名前を継承することであるが、伝統芸能やヤクザの世界ならいざ知らず、樹木の世界にまで襲名があったのには驚く。久しぶりに訪れた羽衣の松で名高い三保の松原、そこで松の襲名がなされていたのである。
 三保の松原は静岡県清水市、現在は合併したために静岡市清水区にある。晴れた日に三保の松原海岸から海越しに見る富士山や伊豆半島はなかなかの絶景、天女が水浴びをしたくなったと言われても、納得しておこうという気持ちにはなる。若いタレントが酔っ払って赤坂の公園で裸になって騒いだのとはワケが違う。確かにロマンチックな絵にはなるのである。漁師が天女の脱いだ羽衣を隠し、こっそりと覗いていたというのも許せる。漁師が隠した650年前の羽衣の切れ端が、まだ保存されていると言われると、チョットとは思うけれど、しかしこれを、痴漢だのストーカーの誕生の物語りだと口にするのもヤボ。天女の裸の美しさに心奪われた漁師が羽衣を隠し、俺の女房になれと脅迫したわけではなさそうである。日本の各地域には、天女が人間と結婚するという話もあるらしい。一説によれば、天女とは白鳥=美しい処女のことだそうである。
 私の中学生の頃は、四季に関係なく、焚き火をしたり寝転んだりして、夜景を楽しんだ。後鳥羽院も詠っている。清見潟ふじの烟や消えぬらん、月影みがく三保のうら波、ともかく、日常のミミッチサを免れた、大らかな場所であった。
 その天女が水浴びするために、身につけていた衣を掛けたと言われる羽衣の松は、当時はなかなか見事な枝振りで、5万4千本も生い茂る三保半島の松林の中でも、ひときわ目立っていた。しかしさすがに老木、平成5年に清水市は次のような立て札を、羽衣の松の根元に立てたのである。
 <羽衣の松は樹齢650年を数え、樹勢がたいへん衰弱しており、現在幹や根の養生をし、樹勢の回復をはかっております。皆様のご理解とご協力をお願い致します。>
 もはや、それから15年以上も経つ。樹勢の回復どころか、太い幹から分岐している三本の枝の二本はすでに枯れている。残りの一枝も元気がない。今にもご臨終という風情である。根元は腐食し始めている感もある。しかしこの一文、何をご理解しご協力するのか曖昧、行政の書きそうな典型的なありきたりの言い回しである。推察するところ、老いた松が倒れたりしないために添えた、支柱などの見苦しさを許容せよとか、この松を枯れさせないための手立てをする費用を寄付したらどうだろうか、といったことであろうが、私としては今や、天下に名を轟かせたこの松、もはや消滅の運命、まことに残念至極、天女様に改めて今までのご厚情を感謝したい、とでも書き直すべきだと感じるのである。それには理由がある。
 この羽衣の松から、15メートルほど離れた場所にある一本の松の横に、新たな立て札が立てられていたからである。そこにはこう書かれている。
 <三保の松原のシンボルとして、長い間愛されてきた、先代「羽衣の松」に代わり、その後を引き継いだ「新・羽衣の松」、平成22年10月に数世紀ぶりの世代交代が行われました。静岡市>
 呆れて物が言えないとはこのこと。先代に比べたら不細工な枝振りの、ただ大きいだけのこんな松を、誰が二代目などと決定したのか、だいたい天女の羽衣の掛かった松に、二代目があるなどとはおかしい、私は怒り心頭である。何が世代交代だ、それが行われたというが、誰が行ったのだ、じゃあ先代は本当に了承したのか、天女の一族に報告したのか、そしてその子孫にもう一度、この松に羽衣を掛けてもらったのか、オレハ、シラサレテイナイ! これは木っ端役人の勝手な思いつきにちがいないのだ、市民にだって知らせて、意見を聞いて決めている筈がない、原発の再稼働決定のやり口と同じだ、バカニシヤガッテ、こうなると我ながらメチャクチャ、この官僚的な態度にタダタダ、オコレチャウのである。しかも先代の松には、立派に子孫がいる。静岡市が勝手に先代と称し始めた松の傍らには、こういう立て札だってあるではないか。
 <「羽衣の松」二世の松、この松は平成9年2月に「羽衣の松」から穂木(芽のついた小枝)を採取し、接ぎ木による二世作りに成功したものです。伝説の松の遺伝子を含め、未来へ残す二世の松です。平成11年3月15日 清水市>
 二代目の松に比べたら、まだヒョロヒョロとした、か細いかぎりの小さな松ではあるが、子孫は子孫である。もし世代交代だというのなら、この松を二代目にして何が悪い。そうしたら私は、先代の死を惜しみながら、子孫であるイタイケナ松に、ガンバレガンバレとご理解とご協力をしても良いのである。
 まあもともと、ニセモノと言えば偽物だが、さらに偽物を作って観光による金儲けをしようとするためか、親しんだ話の種を絶やさないようにして、欺瞞をしても自己満足による連帯を感じたいのか、現在の日本の政治と同じで、何かをすればするほど、姑息で侘しい気持ちにさせられる見事な事例、日本人のせせこましい心の一つだと感じる。下手な理屈をつけては、物事をかえってつまらなくする。