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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月23日 児童劇

 児童劇にばかり出演している俳優は、あなたの舞台には向かない、と言われたことがある。私が演出家としての人生を始めようと、自覚的になった頃である。当然のことながら、それは何故かと聞き返す。もはや正確ではないかもしれないが、その時の答えは次のようだったと記憶する。
 子供は素直に反応する、笑ったり、驚いたり、退屈したり。それが舞台にまではっきりと届いてくる。その反応の良さに慣れ、それが演技する時の快感になってしまった俳優は、客受けをするような演技を良しとするようになる。客の反応がないと、不安になったり、自分の演技がダメだと思ってしまうらしい。
 要するに、良く言えば演技の芸能化、悪く言えばタレントの軽薄な誇張演技、客を湧かす事ばかりを目指すと言う。しかし子供だって、集中して考え、身じろぎもせず、舞台を見つめることだってあるだろう。そんな俳優の演技ばかりを期待して観に来るわけでもあるまい。児童劇に接した経験のない私は内心で思う。
 そういえば昔、浅利慶太が言っていたことがある。子供は集中して興奮すると、身体の体温が上がる。それを感知する機械を劇場に仕込んで、どういう場面が子供に受けているのかのデータを蓄積して、新作を作る時の参考にするのだと。さすがエンターテインメントに深く関わっている演劇人は違う。
 今度私は初めて児童劇の演出をするんですよ、こう言うと同業者はだいたい笑う。そして、身じろぎをさせないような演出では、児童劇には向かないし、子供は喜ばない。興奮するんですよ、舞台に集中した子供は、と多くの人に念押しされる。私はイササカ、ムラムラ、私の演劇はよほど堅苦しいと思われている。この人たちは私の演出した舞台を本当に観て言っているのか、少し偏見がありすぎるのではと思ったりもするのだが、ともかく私は、児童劇には紛れもないシロウト、黙る以外には仕方がない。
 だから今までの私は、考えるような児童劇はダメなんだと思い込み、この分野には興味を示すのを止めていた。おまけに昔、日生劇場で浅利慶太演出の児童劇を観てきた、小学生だった頃の息子に言われたことが響いた。お父さんのは客席に座ると、芝居が終わるまでずっと、じっとしていなくちゃならないから疲れちゃう。私の演出した舞台、「ディオニュソス」を観た後のことである。ニッセイ名作劇場では、俳優たちが舞台から客席に降りて来て、お客さんにバラの花をくれたりするよ。少し浅利慶太の演出を見習ったら。「ディオニュソス」などを観せたのは、父親として愚かな間違いであった。もちろん、少し大人になった時に、「ディオニュソス」もなかなか頑張っているよ、と言ってくれたことはあった。私が傷ついたとでも感じたのか、子供心に反省して励ましてくれたのかも、と親馬鹿は勝手に思う。
 こういうこともあって今回の「シンデレラ」、なんとか子供を退屈させないことにしようと、一生懸命に工夫はこらしたつもりである。むろん、どんなことをしても、所詮は私は私である。皆で考えることを提供したかったために演劇を志したのだから、子供だからといって、一緒に考えない作品を作る訳にもいかない、それでは人間として、子供を差別することになってしまう。私も鈴木忠志ではなくなってしまう。共に興奮しながら考える、いや考えることが楽しくなってもらう、そして俳優たちにも親しみを感じてもらう、できたら自分もそうなってみたいと思ってもらう、この線だけは譲れない。要するに私の職業を通じて、生きることの希望を考え、どうしたら舞台上からそれを与えられるかということである。
 しかしこんな欲張ったことは、演劇の天才だけが可能にできる仕事である。この年齢になった私にとっては天災みたいなもの、しかし引き受けた以上は仕方がないと、果敢に挑戦してみたことだけは、観客ならびに関係者の皆さんに、理解していただきたいと切に思っている。
 今回の稽古ほど、楽しかったけれど疲れたこともない。初めてのことだから仕方がないだろう。今は、早く幕が上がり、子供たちに感想を聞きたいと思うばかり。こういう仕事も、もはやわずかになった私の演劇人生の励みの一つになれば、これに勝る幸せはない。