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鈴木忠志見たり・聴いたり

5月10日 初心生涯

 ロシアの演出家でモスクワ芸術座の創設者スタニスラフスキーは、癖は俳優の演技にとって、両刃の剣だと言う。確かに癖による演技は、俳優の個性のように見えて、観客に驚きを与えることもあるが、これは初見だけのこと、癖による演技が繰り返されると、他人にいつも新鮮な思いを与えることができず、当人だけが得意げに意識したとしても、観る方にとってのその演技は、マタカ! という退屈な代物になる。むろん、本人にとっても虚ろで新鮮さを感じないものになるはずだが、スタニスラフスキーは優しい。両刃の剣は刀身の両側に刃がついているから、ともかく相手を切ることができるとしたのだろうが、実際は自分を切ることの方が多いはず。だから、癖は否定するとはっきりと言えば良かったのにと思う。しかし、演技がその俳優の癖によって成り立っているかどうかを、即座に見抜くには経験がいる。 
 私は、俳優の癖は舞台にとって有害、清潔で緊迫した精神の横溢する舞台空間の阻害要因になるものと考える。癖による演技は、戯曲や演出プランから導きだされた、舞台イメージの実現としての演技ではなく、自分を支持する観客への媚び、相手の好意的な気持ちに直接に寄り添おうとする衝動から出てくることが多い。芸能的な自己顕示=無意識のスタンドプレー演技になる傾向を示すのである。アンサンブルを本質とする舞台芸術にとって、この衝動から成立してくる演技ほど厄介なものはない。演技の癖を見抜くこと、そしてそれを変革すること、これは俳優にとっても演出家にとっても、稽古過程における一番の難しい試練である。
 癖はしかるべき訓練をして直していかないと、どんなに秀れた資質を持っている俳優でも、その資質が演技の個性としては花開かない。その資質もすぐに、無意識にまで沈殿した話し方や仕草に汚染され、時間とともに空虚なものとして、音声的にも身体的にも空間に外化してくるようになる。現場でのこの実感が、私の訓練方法を発想させた根本の理由である。要するに絶えざる自己客観化、自己の現在を醒めた意識で確認し、絶えず一カ所にとどまらないで、自己を新鮮に変化させていくための鏡の役割をする方法が創りたかったのである。
 この訓練=スズキ・トレーニング・メソッドが実践段階に入り、その実態が徐々に知られるようになって驚き呆れたことがある。演劇に生半可な評論家や学者が、この訓練が私の劇団の特定の俳優の演技を前提として考案されたと、書いたり言ったりしていたからである。とんでもない話、事情はまったくの逆である。一時期は、その持てる資質を全面的に開花させたかのように見える俳優の演技も、慢心の心があればすぐに萎れ、個性と称するものも、大道芸の見世物が示すに近い空虚な反復という癖に転じてしまう。これは演出家でも俳優でも同じだが、そこに落ち込むのを避けるためにこそ考案したものである。
 自分がこだわり、個性のように思い込んでいる自分は自分ではない、どちらかと言えば、他人が観察した自分の方に自分の特質がよりよく表われていたりする。このずれはどこからやって来て、どう意識すべきか。否、このずれはどうしたら鋭く顕在化するのか。この解決や正解のない問い、俳優が私とは何かという永遠の問いに、いつも真摯に向かい続けることが出来るようにと望んだ結果が私の訓練である。言い換えれば、演劇表現の固有性と価値は此処にありと、私が見定めたというべきかもしれない。
 俳優は自分の姿を自己と他者との視線の狭間に想像し、未知の新しい自分に出会おうとする。宮本武蔵的には、日々を一カ所に居つかないようにして生きようとする精神の鍛錬、世阿弥的に言えば、時分の花にとらわれず、むしろそれと批判的に同伴し、真の花を咲かすための絶えざる努力、初心生涯の獲得が必要だということである。初心とは初めに物事を決めた時の気持ちや意志を持続することではない。時々の初心、どんな状況にあってもどんな年齢になっても、その時々を初々しく新鮮に生きる境地のことである。そのためには、他人という存在を不可欠の契機として、我見という癖からの離脱の戦いを不断にしなければならない、これが世阿弥が生涯にわたって生きた、俳優人生への変わらぬ自覚である。
 このような自覚は、どんな領域の専門家にとっても、自分が他人よりも秀れて個性的な実績を上げるためには当然のことで、そのための実際の手立ては、それぞれに講じられていることであろう。ただし、日本の現代演劇界を除いてのことである。日本の現代演劇界の住人は、その殆どが専門家ではなく、演劇を趣味とする素人である。彼らの演劇行為の目的は、日々の生活での不安や不満という感情の解消、自己への安心・安住の境地の獲得である。
 訓練のシステムもなく、それゆえに日々の鍛錬もなしに生み出される舞台に、自己肯定に胡座をかいた、心身の癖以外の特徴を見いだすことができるものか、疑問である。