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鈴木忠志見たり・聴いたり

5月19日 入れ墨

 私は30代の頃、日本の伝統芸術を研究する学者たちの会に招かれ、実際に入れ墨をする現場を見ている。なかなかの緊迫感、入れ墨をされる人の辛そうな身体の動きと、苦しげな呼吸を、今でも思い出すことができる。最後に彫師が、全身に化膿止めの抗生物質を塗っていたのが印象的だった。当時の私は、入れ墨をする気など毛頭なかったが、この世界の関係者には興味をもち、いろいろな文献を読んでみた。ある入れ墨の彫師が面白い発言をしていたことを思いだし、古いノートを調べてみたら、しっかりと抜き書きしてあったのに驚く。彫師はマジメに語っているのだが、思わず笑ってしまうようなもの。舞台の台詞として使えるとでも思ったのかもしれない。
 「入れ墨をした人には、悪い人はいません。だいたい気のいい律儀な人が入れ墨を彫るのです。そうして、入れ墨をした人は出世します。なぜなら我慢の力が身につくからです。それにあれだけ痛い思いをし、金と時間をかけたと思えば、自然、自分の身体を大事にします。だから、無用な喧嘩は決してしなくなります。それなのに、入れ墨をしているというと、警察はすぐに疑惑をもったりしますが、あれは大間違いです。私はおまわりさんにも是非、入れ墨をしてもらいたいと思います」
 得々としたこの屁理屈は、素朴な笑いを誘うが、なんだかシンミリとさせるところもあるから不思議である。大阪の入れ墨事件の影響の故だろうか。
 入れ墨をした大阪市の職員が、入れ墨を見せて子供を脅した。入れ墨をしていようがいまいが、大人が子供を脅すのは良くないには決まっている。しかしこれを受けて、市長の橋下徹が大阪市の全職員に、入れ墨をしているかどうか、入れ墨をしているとしたら何処にしているのか、身体の部分によっては、アンケートに答えることを義務として課した。職員はそれに答えたらしい。橋下徹も大阪市の職員も、ドウカシテイルのではないか。
 約3万人強の職員のうち、110人の人たちが入れ墨をしていると申告したらしい。大阪市民への街頭インタビューがテレビで放映されていたが、あまりの多さにビックリとか、入れ墨している人が公務員なんてコワイとか、入れ墨している人間そのものを、人間として否定的に見る発言が多い。
 橋下徹も入れ墨をするような人間は公務員として不適格だとしている。既に入れ墨がある職員には、消去を指導する方針だそうである。しかし、こういうアンケートに答える義務はあったのか。また突然のアンケートに、職員の全員が本当に正直に答えたのか、私は疑う。私は日本の国民が今や、そんなに正直だったり、素直だったりするとは思っていないからである。こんな調査の仕方も数も、本当に当てになるのか。
 しかしまあ、小沢一郎の政治資金虚偽記載裁判の検察官役の控訴にも感じたことだが、弁護士あがりがたまたま権力を手にすると、ノボセアガッタコトヲスル、という印象は免れない。検察官の権力ボケによる横柄さと似たりよったり、そのつど俗受けする感情に裏打ちされた理屈を考えだし、正義漢ぶる。弁護士出身の民主党の幹部もそういうところがある。権力の誤った行使を、チェックするのが弁護士ではなかったのか。
 こういう人たちが独裁的な指導者になって舞い上がったら、たしかに何を言い出すかしれたものではないという危惧を感じさせられる。例えば、ウソをつく人間は良くない、今までに他人にウソをついたことのある人は、イツ、ダレニ、ドコデ、その行動をしたのかアンケートに答えなさい、これは日本国民の義務である、ウソをつく人が公職に居るのは相応しくないから、すぐに辞めてもらおう、とでも言いだしたらどうするのかと考える。この発言は間違ってはいまい。しかし日本人が真に正直だったら、日本には官僚も政治家も一人もいなくなるはずである。それが日本を健全にする究極の行政改革だと激しく言いつのられたら、私も実現性の有無はさておき、ソレハソウダ、タメシニ、ヤッテミタラ、ぐらいのことは言うかもしれない。
 しかし、この手の人たちは、そこまでは突っ込まない。この人たちの言動の多くは、人間の本質の多様性に迫り、人間関係や物事をより良く構築しようとする情熱から発したものではないからである。どう転んでも、表面的な制度いじり、大衆迎合的な情緒=ポピュリズムに足を乗せている。
 私の若い頃の映画では、入れ墨をしている人は正義の味方、庶民のヒーローだったりもした。片岡千恵蔵主演で遠山の金さんが活躍する映画のタイトルは「御存じいれずみ判官」、英語のタイトルは、Official with A Tattoo、入れ墨をした公務員だった。映画の最後の方では、裃に威儀を正していながら、パッともろ肌を脱いだ遠山の金さんが、桜の入れ墨を見せ、神妙にしろい! と悪者を一喝する。場面は大阪市の光景とはまさしく逆なのであった。
 1960年代から70年代にかけて大衆だけではなく、一部の知識人や学生運動家にも熱く支持されたヤクザ映画に「緋牡丹博徒」や「昭和残侠伝」がある。その主役を演じた、藤純子や高倉健も背中に入れ墨をしていた。この二人の役者が、悪徳ヤクザの根城に斬り込みに行く場面では、必ずと言ってよいほど、背中の入れ墨を見せたものである。それを見た時の深夜映画の観客は、歓声をあげ拍手。入れ墨をしたマトモな人たちが悪を懲らしめ、喝采を浴びていたのである。それが近頃では、入れ墨をした人は肩身が狭く、銭湯にも入れない。この間数十年、この落差の激しさに、日本社会の変質が表れている。それをすべて否定するつもりもないが、いくばくかの戸惑いも感じるのである。