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鈴木忠志見たり・聴いたり

5月28日 非効率

 久しぶりに新しい俳優で、リア王の稽古をしている。今年の10月に北京で10日間ほど上演する。中国中央戯劇学院のプロデュースだから、中国人の学生俳優が中心の配役だが、アメリカの男優と韓国の女優、それに私の劇団の男優一人も加わっている。アメリカと韓国の俳優は、長年にわたって私の演出作品に主役で出演している人たち。多言語演劇には経験豊かな俳優である。
 SCOTの劇団員に加えて、総勢30人の外国人俳優の来村、現在の利賀村は賑やかである。夏ではなくこの季節に、村がこれだけの賑わいを見せ、施設がフル稼働するのも珍しい。
 新利賀山房と創造交流館の二ヶ所に装置を建て、新しい俳優たちの稽古と、SCOTの稽古を同時に行っている。夜は新しく生まれ変わった八角形の旧図書館、現在は劇団SCOTの本部棟で、今度の企画に参考になるような映画の上映などもしている。
 SCOTの俳優たちの演技を新利賀山房で見せ、そのあとそれを参考にして、創造交流館の劇場で、新しく配役についた俳優たちが稽古をする。三週間の稽古期間だから、登退場の仕方、舞台上での立ち位置、音楽での動きや移動するキッカケを、ともかく急いで覚えてもらわないといけない。台詞だけ覚えていても、このリア王の演出では稽古にはならない。既に出来上がっている舞台を見てもらって、どんなふうに場面が変化していくのか、呑み込んでもらうのがてっとり早い。他人の秀れた演技を見せれば、同じく秀れた才能は、一目で何が目指され、それがどう大変かはすぐ理解する。そのことで、俳優の演技者としてのレベルもすぐに分かる。
 今回の稽古では第一幕だけをしっかりと身につけ、帰国してもらうことになりそう。毎日朝10時から夜10時まで、稽古をしてもそんなもの。第二幕は北京での一カ月間の稽古の期間に委ねる以外にはない。上演までにはまだ時間があるから、多くの場面を浅く稽古するより、第一幕を徹底的に深く稽古し、どんな身体の内部感覚だったのか、忘れないようにするというのが今回の方針。演技とは外面的な動きでも言葉の言い方でもない。動こうが話そうが、身体感覚の裏打ちが大切。北京では一カ月以上の稽古日数と、一週間の舞台での稽古を用意してもらっているから安心はしている。
 しかし、利賀村や北京での滞在費や交通費のこと、それに俳優だけではなく、多くの関係者の労力のことを考えると、演劇とは、ましてや国際的な協同事業は、いかに経済効率の悪い仕事かと、改めて感じる。
 もう30年以上も前になるが、作曲家の武満徹に音楽演奏の指揮をしてみないかと言われたことがある。私は楽譜は読めない。怪訝に思ったが、ともかく私は聞いてみた。練習はどれぐらい、二、三週間はするのか。彼は呆れたような顔をする、そんなに練習はしない、長くて二、三日、短くて一日だよ。そこで私は思い出す。そうだ! 演奏家は楽譜を見ながら練習し、本番でも同じ事をする。演奏家は会場の音の響きや音色の変化にはウルサイコトを言うくせに、楽譜をめくる雑音には平気な連中、そこで私は武満徹に言った。楽譜を全部覚えて練習するなら、もう少し時間が必要なのではないのか、俳優は台詞を覚えていなければ、稽古にならないけど。横合いから誰かが口を入れた。売れっ子の秀れた演奏家はいろいろ声がかかる、そんなことをしていたら、商売にならない。私は内心で呟く。芸術家ぶっているが、演奏家はたんなる技術職人か?
 外国の友人の作曲家からよく聞かされる嘆きがある。もっと練習してくれたら、俺の曲はアンナモノではないんだがな、演奏会の会場を出るときの作曲家の淋しげな表情、これは私にも経験がある。もう少し俳優たちが厳しく稽古をしておいてくれたら、観客はもっと感動したのにな、と同じである。
 私は武満徹に尋ねてみた。一体、何をすれば良いの? 彼は私が楽譜を読めないことは承知しているはずである。楽譜が読めるかどうかなんてどうでもいい。聴いていて気に入らないと感じたところは、ダメダ! と怒鳴り散らしてくれれば良い。あの迫力で怒鳴ってくれれば、それだけでもテンションは揚がる。それで演奏が良くなる可能性もあるかもしれないしね。彼はイタズラッポク笑っている。
 演出家や劇作家だけではなく作曲家でも、自分の考えや想像を可触的にしてくれるために、他人を必要としている芸術家の悩みは、どの領域でも同じだと得心する。だからといって、私は小説家や絵かきのような個人芸術家が羨ましいと思っているわけではない。この悩みや不安が、見事に吹き飛んだ時の幸せ、その幸せを実現してくれた他人との出会い、この時の興奮ほど、ジンセイ、ココニアリ! という感慨を与えてくれるものはないからである。