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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月18日 ジンカン再興

 身近な女性に請われて、生き方についての忠告をする。本筋ではない瑣末な部分にこだわり、女性は少しの自己主張をする。またかと私はウンザリ。気持ちが顔に出る。女性はニッと笑い、こんなことで自己主張するとは、近代の病をひきずっているわね、と言う。わずかながらだが、批判と抑圧を感じての咄嗟の神経反射、つまらない自己正当化だと自分でも気がついて、場を和ませようと冗談を言ったらしい。それに釣られて私も質問。ジャア、現代の病の方は?
 ハイ、と朗らかに返事をして沈黙、後でイヤミのメールをするかもね、だそうである。その場で人間関係を深めたり、物事をこじらせたくない。それはすべて抑圧、その場をやり過ごすのがゲンダイ、そのためにネット社会があると言う。ジンカン=人間も変わってしまったと私は思う。
 本来の漢語の用法では人間はジンカンと読み、世間や世の中を意味した。個別の人間=ヒトを意味する用法は日本独特のものらしい。たしかに私にとっても世間とは、見える部分と見えない部分の両方で、私の人生に影響を与える可能性を持つ人間集団=ジンカンである。ということは当然、私の生き方を規制したり、抑圧する<ヒトノカンケイ>を含んでいることを前提にして、この言葉を使っている。
 もちろん私は、ジンカン=人間の精神的規制や抑圧は必ずしも悪いことではない、と考えている。むしろそれを、引き受けて生きて見たいと、演劇活動をしてきた一面もあるくらい。要するに、自分を集団というものの一員だといつも思い、その集団は価値基準を共有していると見なし、行動してきたところがある。それが多少の偽善に見えることがあったとしても、ジンカン=人間とはそういうものだと自分に言い聞かせてきたところがある。しかしどうやらネット社会は、この集団を集団として存続させていると私が信じている、ジンカン=人間の基準を徐々に変更しつつあるらしい。
 今はもうずいぶんと昔になったが、インターネットが一般に親しみ始められた頃である。こんな言説があった。ヒエラルキーの堅固な組織では、ネットを使ったメールによるコミュニケーションは、民主的な組織運営に有効に作用する。例えば、自分より目上の人に自己主張のしにくい人、他人の執拗な主張に影響を受けやすい人には、メールは自由な自己主張の手助けをするというのである。ここでは、各個人に根付く人間的な様々な弱さからくる葛藤、それが露呈してくる人間関係の場には、精神的な規制や抑圧という人間にとってのマイナス価値が存在し、それらからの解放が人間の自由を保証する民主的なことであり、インターネットはそれを促進する手段として機能する、と考えられている。
 私は当時、インターネットに対するこの考え方では、フランスの社会学者デュルケームの言う、アノミー<anomie>な社会現象を出現させたり、集団の秩序を悪い方へ解体しやすくすると感じたことを思い出す。
 渡る世間に鬼はなし、という諺がある。インターネットを駆使したコミュニケーション、例えば出会い系サイトに騙され、悲惨な事件に巻き込まれた人たちのことは、よく報道されている。渡るネット社会は鬼ばかり、ネット社会の出現により、世間という見えない集団性が崩壊して、個人が孤人になっている証左の一つだと感じることがある。
 先日、刑務所を出所したばかりの若い男が、何の縁もない、偶然に出会った二人の人を路上で殺害した。理由は、死刑になりたかったからだという。自己を規制したり抑圧する、人間関係の欠落を想わせられる。ジンカン=人間は無くなっているのである。
 私が世間という文字に初めて心が触れたのは、山上憶良の貧窮問答歌の<斯くばかり、術無きものか、世間の道。世間を憂しとやさしと思へども‥‥>などである。奴隷生活のような暮らしを直視し、立ち向かっている心情が詠われていた。ここでの世間は、<よのなか=世の中>と読まれている。山上憶良の生きた貧しい時代の人間関係に還れなどと言うつもりは露ほどにもないが、ネット社会の在り方とは別に、ネット社会の中でのジンカン=人間=世間というものの存在の仕方を、どのように新しく創り出すか、その方策を考えることは、日本という国の最大の課題の一つだと感じる。
 ネット社会を憂しとやさしと思へども、飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。激変した社会構造への適応に立ち遅れた多くの人たちがいるはずである。時代は移り変わっても、身のやせ細るような辛い人生を生きている人たち、その人たちの日本社会への心情は、万葉集の誕生した頃と、変わりはないようにも思える。