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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月25日 老後の特権

 おわら風の盆で知られる越中八尾は、現在は富山市の一部だが、私が利賀村で活動を始めた頃は八尾町であった。この八尾町から利賀村までは、およそ30キロの道程である。道半ばに栃折峠があり、そのあたりの道は曲がりくねっているうえに急坂、雪が降り積もった時には、自動車での上り下りに苦労する難所である。
 もう30年ぐらい前になるか、峠の曲がり道を車で下り始めた時に、前方に突然、大きなショベルカーが現れた。道は一車線、おまけに凍っている。ショベルカーは停止したが、こちらの自動車のブレーキは作動しているが効かない。車はズルズルとゆるやかに滑り降りて行き、ショベルカーに正面衝突、ショベルカーの運転手が咄嗟に機転を利かせ、岩石や土砂を掘るショベルの部分を上に移動してくれたので、ショベルがフロントガラスを突き破って運転席に入らず、怪我をしないですんだ。もちろん、車のボンネットは破損、今は懐かしい思い出だが、利賀村生活30数年の内での、怖かった経験の一つである。 
 その栃折峠に誰も通わなくなった木造の小学校があった。私が利賀村で活動するようになって20年経っても、そのままに建っている。毎年のように雪で屋根が少し傷むが、翌年にはきれいに補修されている。しかし、全体は少しずつ古びていく。高山線の越中八尾駅から利賀村へ向かうバスの車窓からは、幾つかの教室や講堂もだんだんと荒れ果てつつあるのが見てとれた。この栃折地区は1957年<昭和32年>に八尾町と合併するまでは、大長谷村に属する一角であった。
 あるとき私は当時の利賀村長に聞いてみた。なぜいつまでも使わないのにそのまま建てて置くのか、他の目的に有効に活用するなり、取り壊した方が経済的ではないのか。村長の答えはこうである。あれはまだ廃校ではなく、休校にしてあるのでしょう。それから村長は独り言のように呟いた。村は合併しない方がよかった。離村者を増やしてしまった。この時の私は、この意味が分からなかった。それが分かったのはしばらく経ってからのことである。栃折峠の小学校は、今は無くなっている。
 利賀村長の言葉には、二つの意味が込められていた。都会から離れた山村の小さな共同体にとっては、小学校は精神的連帯の要であり、その地域に住みつづける人達、大人になって故郷を離れ、それぞれの人生を歩み始めた人達、そのいずれの人達にも、いつどこででも、共通の経験に基づいた話題を提供できる貴重な思い出の場所なのである。できることならいつまでも残して置きたい、これは人口流出をくい止めたい過疎地のリーダーとしては当然の思いである。それに一縷の望みかもしれないが、いずれはまた、この学校を必要とする時がくるかもしれない、だから廃校ではなく、それまでは休校にしておきたい、未来への望みを少しでも残したい、という気持ちである。そして、その気持ちを支える、もう一つの現実的な理由もあった。廃校と休校の違いである。
 休校とは学校として再び活動する可能性を前提としている。廃校という、学校そのものの廃止とは違うのである。休校にして置けばその間、総務省=当時の自治省から、維持管理に要する経費が補助金として交付された。その金は貧しい自治体にとっては貴重な収入、村民に仕事を与えることのできる財源の一つでもあったのである。
 大長谷村が八尾町と合併した当時の利賀村の人口は約3000人、小学校は利賀小学校の本校が一つ、分校が12校もあった。標高500メートルから800メートルの山地で、東西23キロ、南北52キロの広さのある利賀村には、この数の分校は当然かもしれない。冬季には雪のために小学生が徒歩で学校に通うのは困難、季節分校と称して一般の家庭を学校にし、近所の子供が集まって勉強したこともあったという。
 利賀村の助役を務め、退職してから今年の4月まで、富山県利賀芸術公園の園長をしていた野原順作さんが、小学校へ入学し在学していたのは昭和20年代、毎年100人前後の新入生があったそうである。それから60年も経っているが、その間に利賀村は立派な本校舎を新築した。そしてすべての分校を廃止し、教室を本校に統合したものの、ついに今年は新入生徒が一人もいない事態を迎えたのである。
 8年ほど前に、利賀村も平成の大合併に呼応し、人口6万人の南砺市の一地域となった。その当時、約1000人はいた旧利賀村地域の住民人口も、今や700人を割り込んでいる。これをすべて、町村合併が原因だとすることは出来ないが、わずかながらも村に居残る若い人達も、子供の将来を考えれば、いずれかは住居を利賀村以外の地に構えるのは必然の成り行といえるほどに、行政面での利便性は後退しつつある。おそらく、利賀村から学校が完全に消えてしまう時も、そう遠くはないように思える。
 富山県庁から出向し、私の活動を20年間も支えてくれた金田豊さん、私と同じように利賀村に家を建て、村民になった人である。現在は私ともども南砺市民になってしまったが、その金田さんが淋しそうに私の家に来る。今年は野原順作さんの後任の園長になった。恒例のことらしく、小学校の入学式に参列するつもりでいたが、それが無くなってしまった、残念だとひとしきり。それだけではなく、自分より若い人達が、新入生ゼロの状態を深刻に受け止めていないことが、ひとしお淋しさに輪をかけるらしい。むろん私も利賀村民の一人だったから、淋しくないわけがない。それに私は死ぬまで、この地で演劇活動をするつもりでいる。この地域の将来がどうなるかは、重要な心配事である。
 都市生活の便利さへの愛着、山村生活の身体労働の厳しさへの嫌悪、日本人が第二次大戦後に身につけたこの性向は、すっかり定着し当分は変化することはないだろう。多くの日本人は、生活を便利にして楽しむということと、生活の質を精神的に贅沢なものにするということの違いを、見極める意欲も機会もなくしてしまった。残念ながら、山村の共同体が滅びるのも時間の問題である。
 しかし私は、30年以上も利賀村で生活してきたが、多少の生活上の不便を味わったことはあっても、精神的な仕事の面で、不満や不安を感じたことは殆どなかった。行動の不十分感はあっても、精神面の不十分感はなかったのである。それを私の職業の特殊な妄想力の故だと言いなす人もいるが、妄想がすべて妄想として終わったわけではない。
 私は金田さんや野原さんに感謝の気持ちを添えて言わねばならない。私はまだまだ、夢想の中を理想を求めて突進するドン=キホーテのようでありたい。あなた方も淋しいだろうが、もう少しサンチョ=パンサの役回りで付き合ってくれないか、と。それ以外にこの日本社会で、淋しさが価値ある人生の要素の一つに転化することはないと感じるからである。悲観をベースにしながらも、楽天的に振る舞うことができるのも、老後に残された、最後の特権的な時間だと、最近は自分に言い聞かせている。