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鈴木忠志見たり・聴いたり

7月28日 謙遜談義

 秀れた舞台芸術家や素晴らしいスポーツ選手を見る楽しみは、集中すると人間はこんなに自由になれるのかという印象である。むろん、その自由を生きるために、どれほどの精神力を養い、肉体の不自由と戦う時間を必要としたか、そのことをも感知させられ感心する。舞台の演技でもスポーツの競技でも、ともかく一回性として、身体がその場を生きる楽しさの極限を感じさせてくれるのが醍醐味である。人生すべて、かくありたいと思うのだが、そんなことがたやすく実現するはずもない。だからこそ、そうした凝縮した人生の瞬間を、人々はスポーツや舞台芸術に垣間見ようとするのであろう。
 フランスの哲学者アランによれば、人間は謙遜な気持ちになった時が、最も美しい時間を生きているのだそうである。謙遜、今や懐かしい人間的な響きを漂わせている言葉だが、彼は謙遜とは飾らず率直な力であるとし、それを筋肉の状態で定義しているから面白い。謙遜とは筋肉の楽々とした、ほぐれた状態だと言うのである。
 「剣術の先生は、彼を信ぜぬ弟子どもに、迅速に突くための真の方法は、身を引き締めることではなく、それと反対に、身を楽にすることであると教える。ヴァイオリンの教師は、もし音を自由に出し、これを伸ばし、拡げようと望むなら、手は決して握りしめてはならぬと教えるが、彼の弟子はそれを信用せぬ。私もこれと同様に、いずれの知識であれ学修する生徒に、注意と欲望の様子で身を固くし、また自分の喉を締め付けてはならぬと教える。<中略>あの咽喉を引きしめ、声を高くし、やがて何か意見を発表しようとすると大声に叫ぶあの先生は、私の言を信ぜぬ事であろう」
 哲学者に剣術や演奏時の筋肉の在り方にまで言及され、それを精神状態の比喩にまで使われるとは、やや恐れ入るが、言わんとしていることは良く分かる。謙遜とは心身のこわばりを脱した状態だと言うのである。しかしこれを、日常生活での緊張の無い状態を、自由自在な心身の状態だと感じ、それに馴染んだ振る舞いに謙遜が生きられているなどと誤解しないことである。アランが謙遜を説明するために使用している武術や演奏の技術は、厳しく持続的な鍛錬を前提として成り立つもの。弛んだ低エネルギーの心身の行動とは似ても似つかないものである。
 自由で自在な行為の楽しさ、それを楽しむためには、精神も身体もまず目的に向かって、意識的に身が引き締められなければならないのは当然のことである。その過程で、緊張によって心身のコントロールが、不能に陥らないことを指摘しているのである。断片化した心への集中、硬直化した身体に存在感を付与しようとする無意識的傾向、こういう緊張状態の解除、あるいはそれから離脱した状態を、アランは謙遜と見なしている。まさしくある種の文学的な表現であるが、この言葉の使い方は、日本人には若干の異和があるかもしれない。
 謙遜という言葉で思い出すのが、ロシアの劇作家チェーホフ。謙遜について、彼ならではの醒めた考察を手帳に書きつけている。この人にはいつも、知的エスプリとはかくなるものか、という快さを味わわせてもらう。
 「ある謙遜な男のために祝賀の催しがあった。一同はいい機会とばかり、てんでに自己誇示やお互い同士の褒めっくらで時を忘れた。食事も終わろうという頃になってやっと気がついてみると、当のご本尊を招ぶのを忘れていた」
 ロシア人が酒盛りで盛り上がった場に、何度も同席した経験からしても、この光景は説得力がある。同席者は間断なく入れ替わり立ち代わり立ち上がって演説し、場はさらに盛り上がる。ご本尊がいなくても、これだけ楽しめれば結構といった具合。
 では、果たして日本ではどうか。ロシアには一応、招ぶべき謙遜な男がいたらしい。日本にはもう、そんな男もいなくなってしまったかもしれない。