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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月24日 斉藤郁子のこと

 長い軍靴を履き、軍刀を持つ幾人かを含む髭面の男たち24人が、三段に並んでいる写真がある。場所は旅順、1904年<明治37年>12月20日、日本陸軍第三軍司令部の建物の前である。1904年12月といえば、日露戦争の渦中である。この写真は当時の文部省発行の教科書にも掲載された。
 この写真の前列中央には東郷平八郎海軍元帥、乃木希典陸軍大将、二段目の列には司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」で広く知られるようになった、連合艦隊参謀の秋山真之海軍中将、支那駐屯軍司令官を務めた、斉藤季治郎陸軍中将の姿も見える。この写真は、203高地でロシア軍に勝利した乃木大将の第三軍司令部を、同じく日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利する海軍の幹部が、お祝いのために訪れた時のものだという。日本軍隊創設期の陸海軍の実戦部隊の幹部が、一堂に会している感のある写真である。
 日露戦争は日本国家が欧米列強に抗して、世界の歴史に近代的な国民国家として力強く登場した、輝かしい記念碑的瞬間であるとする人たちもいるが、実態は日本の韓国植民地化と中国侵略への道を開いた戦争でもある。日本は1910年に韓国を併合している。韓国への植民地支配は、その後35年間も続くのである。
 斉藤季治郎は、一般の人には馴染みのない人物だが、この人が私の長年の同志であり、シアター・オリンピックスや日中韓の演劇人によって創設された、BeSeTo演劇祭の事務局長を務め、外国の多くの演劇人から慕われた、斉藤郁子の祖父である。
 私がこの事実を知ったのは、そう遠い昔ではない。彼女の両親がこの世を去り、その遺品を整理していた頃である。その遺品の中には、彼女の祖父宛ての、伊藤博文や乃木希典の直筆の書簡もあった。これらの書簡は、国立国会図書館に寄贈したようである。
 彼女と私は50年以上に渡って、共に仕事をしてきた。私の国際面での充実した仕事は、彼女の存在がなければ有り得なかったと、今でも感謝の気持ちで一杯だが、自分の家系の話は、彼女の口からは長いあいだ聞いたことがなかった。あるとき偶然、この写真を見せられ、彼女が軍人一家の出自だと知ったのである。その時は、祖父の陸軍中将昇進の時の記念写真、海軍航空隊に所属していたことのある父親の写真も同時に見ている。
 まもなく発刊される彼女の回顧録とも言うべき、長時間インタビューの冊子に、私はこれらの写真を、彼女の幼い頃の写真と共に掲載したらと勧めたことがある。その時彼女がキッパリと、それを断った時の言葉は今でも思い出す。あんなに親しく、共同事業を推進してくれている韓国や中国の人たちに申し訳がないし、恥ずかしい。
 歴史に残る仕事をしたい、これは彼女の口癖であった。この歴史に残る仕事、彼女にとってそれが何であったのか、親族の写真を見、彼女の言葉を聞いた時に、私は納得したのだった。彼女にとっての歴史的な仕事とは、彼女の祖父や父親が生きた、日本人による国民国家形成の近代の歴史とは逆の、異質な人たちによって構成される国家を認めつつ、そこに住む人たちとの、新しい人間関係の歴史を創ることだったということを。そのために彼女は、権力と富の集中する東京を捨てることを厭わず、両親や家族と疎遠になることも覚悟し、利賀村という僻地の住民になり、文化による国際的な共同事業を成立させる仕事を意識的に選んだのだ。
 彼女を偲ぶ会には韓国、中国、台湾からも、これまでに縁のあった、演劇人や文化団体の代表が参集する。領土をめぐって、これらの国との政治的な紛争が激化している現在、孤独な志を秘めて、身命を賭けるように従事した利賀村での彼女の事業が、確実に結実されつつあるように思え、私としては感無量である。