BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

12月2日 懐かしの大阪

 いよいよ明日は吉祥寺へ立つ。山奥の過疎地から日本有数の過密地である都会への移動。昨年も触れたが、この取り合わせが、あまりにも不思議で楽しい。
 吉祥寺という街の活気は若く、いろいろな事で刺激してくれる。むろん私にとっては、利賀村は最も刺激の強い場所だが、刺激の質が違っている。ありきたりの言葉で言えば、自然の偶然性と共生することからくる刺激と、極度に人工的な管理の行き届いた場所から与えられるそれである。しかし、ここであえて言っておけば、それぞれの場所それ自体が、楽しいということではなく、二つの場所の極端な違い、この違いが同時に身体に懸かってくる具合が、私に楽しみを与えるのである。
 おそらく、吉祥寺だけで生活していたら、私は退屈するだけだろう。身体感覚が平板になり、自分の身体を形作る感覚、五感のエネルギーを持て余すに決まっている。利賀村にも同じことが言えるかもしれない。SCOTという劇団が、世界各地で活動しながら利賀村に帰って来るから、利賀村の自然の偶然性の豊かさが、私の身体を活性化させる。この環境だけに慣れきってしまえば、精神の闘争心はそれほど湧き起こらないに違いない。
 異質なものどうし、それが出会い共存することに立ち会う。そして、その狭間を生きる感覚、これが私たちの精神活動を活性化させる。この場合、異質なものどうしの距離感はあればあるほど良い。これは私の職業を生きるときに、感覚を鈍くさせないための要諦であり、私の舞台の演出手法の要でもある。
 今日、稽古場から我が家に帰る道すがら、雪に白く染まり始めた山を見ながら、思わず「王将」を口ずさんでいた。明日は東京へ出て行くからは、なにがなんでも勝たねばならぬ、空に灯がつく通天閣に、おれの闘志がまた燃える。思わず口ずさんだ後で笑ってしまった。アマリニモ、モンキリガタ。大阪の将棋指し阪田三吉の心境を歌ったものだが、作詞は西條八十、歌手は村田英雄、これは三番の歌詞である。
 私はこの流行歌を戦前のものだと思っていた。阪田三吉は第二次大戦終了以前、昭和の初期に活躍した棋士だったからだ。被差別部落出身で無学ながら、独学による努力の連続で将棋界のスターに、将棋の指し方のみならず、型にはまらない人生をも生きて、多くの人々を魅了した。だから最近になって、この歌が1961年に作詞作曲され、大ヒットしたと知り、流行歌にはそれなりの蘊蓄があると自負していた私は、その不明を恥じた。なぜこの歌が突然、私の口の端に上ってきたのか、それは通天閣の故であった。
 縞ののれんに、この意地かけて、男まさりが耐えて来た、負けちゃならない浪花の女、通天閣の赤い灯よりも、胸に燃やしたど根性。1965年に美空ひばりが歌った「のれん一代」の歌詞である。私はこの歌を今回、吉祥寺シアターで上演する「シンデレラからサド侯爵夫人へ」の舞台、主人公の一人である娼婦が、他の主人公の健全をよそおう家庭に、殴り込みにいく時の音楽として使っている。ここでも通天閣の灯が、闘志をかき立てているのである。
 通天閣、その夜の灯りが、ある種の精神状態のシンボルのように存在し、広く共有されたのも、昭和という時代の不安定で変化の激しかった世相と、大阪という都市が持つイメージの故であろうか。それが、この紋切り型の心構えの歌詞と、泥臭さを引きずった曲に、多くの人々の思いを誘引したのであろう。
 現在日本の政治状況は、大阪が起爆剤になって活性化している。珍しいことに、「王将」の闘志と「のれん一代」のど根性が、再び大阪に燃えあがっているように見える。くれぐれもダメナ東京の新しいシンボル、東京スカイツリーなどに憧れたり、遠慮したりせず、通天閣独自の灯りを燃やし続けてもらいたいものである。それでなければ、二度と大阪が脚光を浴びることなどあるはずもない。詭弁を弄したり姑息な立ち回り方をしたら、かつての大阪人の心意気を広めた、この二つの懐かしい流行歌に申し訳が立たないのである。