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鈴木忠志 見たり・聴いたり
12月23日 語りの演技
「シンデレラからサド侯爵夫人へ」の公演のない夜に、渡辺保、金森穣、菅孝行、大澤真幸、水野和夫の5人と対談をした。歌舞伎、現代舞踊、現代演劇、社会状況、経済環境の分析を下敷きに、私の現状認識を語らせてもらった。私は日本の先行きにそれほどの明るい希望を持っている訳ではないが、皆さんの話を聞いても、同じような気持ちにあると思えた。多くの刺激を受け、5人には感謝である。異なった領域の人たちとの知的な対話の必要性を改めて感じる。
全部で11公演の舞台も、残り2回だけになったが、すべて満席で公演は終了する。この時期に定期的に吉祥寺シアターでの公演をし始めて3年、東京の大新聞のどれにも予告の記事が出たわけではなく、宣伝活動はダイレクトメールと劇団のホームページでのそれだけ。SCOTの公演への観客の定着ぶりを有り難く思う。
公演終了後の観客とのトークや、ロビーでの感想を聞いたりしての、今年いちばんの印象は、SCOTの俳優の演技が、東京で行われている一般の演劇公演のそれとは違うと感じた観客が多いということである。むろん否定的にではなく、新鮮な印象を伴ってのことである。なにが違うか、大方の推測はつく。舞台上での言葉の話し方と身体の在り方が違うのである。
現在の日本の現代演劇は、どんな言葉も舞台上では会話として話されるという考え方を前提にしている。いわゆる話し言葉ということだが、その言葉は一人の人間の内面、それも生活世界で生きられ体験される心情に裏打ちされていると見なす。だから舞台上での俳優の演技は、話し方や身体所作を駆使して、見えない人間の心情や心理を、観客が感知できるようにすることになり、その帰結として、俳優の演ずる人物は、限りなく日常生活で出会うような、身近な存在になるのである。というより、理解可能な心情や心理表現を目的とする演技になる。
SCOTはこの演技観を否定している。それは映画やテレビで見られる、日常生活での人間関係の軋轢を表現するための演技だからである。舞台上の演技は、日常の生活世界を生きる人間関係を表現するためだけのものではない。歴史的に考察しても、演技は人間の頭脳から産出された思考の言葉、その音声化に重要な使命がある。要するに厳密に思考された言葉、人間の想像力や特殊な意識状態や知覚作用を表している言葉、それは殆ど個人的に書かれた言葉として目に触れてくるものだが、その内容を如何に音声化し有効に観客に伝えるか、そのためにどんな身体的な存在の仕方、言葉の語り方(話し方ではない)を舞台上で必要とされるかを追求するのが、演技という貴重な文化的制度だと考えるのである。
三島由紀夫の「サド侯爵夫人」という戯曲の言葉は、日常生活では音声として触れることのできない言葉、まさしく思考の言葉である。三島個人の頭脳の内で起きた議論としての言葉で、日常の人間関係で交わされる類の会話の言葉ではない。こういう言葉に舞台上で語られる言葉としての説得力を与えるためには、日本人の多くの俳優たちが、暗黙の裡に了解しているものとは異なる演技が要求されるのは当然である。
モーツァルトやベートーベンは日常生活で哀しんだり怒ったりする感情を、作曲という行為に託したのではない。むろん彼らの曲を聴いて、その音色やリズムに、そのような感情を移入して日常生活の慰みとする人々が存在することを、彼らの音楽は拒みはしない。しかし私にとって、彼らの曲がすばらしいのは、日常生活世界には存在しない音の組み合わせを作り出し、その音のうちに他人の聴覚を引きずり込み、時と場所によって多様な想いに誘う、こうした集中力と情熱を備えた人間が存在するという、不思議な感覚を与えるところにある。
優れた劇作家も俳優も同じである。日常生活では触れにくい言葉や身体所作への集中力や情熱、それを生きることによって、人間という存在に対する驚きの感覚を絶えず忘れないようにしてくれる。これが私を、演劇にこだわり続けさせた理由のひとつでもある。