BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

2月14日 待つということ

 1953年、パリで初演され、世界の演劇界を席巻した「ゴドーを待ちながら」という戯曲がある。それまでの劇=ドラマという概念に挑戦し、演劇表現の時代的な存在理由を見事に示したものだった。作者はアイルランド生まれのサミュエル・ベケット、ノーベル文学賞を受賞した人である。この戯曲の特徴を簡単に要約すると次のようになる。
 夕暮れ時の田舎道、一本の木の傍らで二人の浮浪者が、ゴドーという人物の到来を待っている。その日も翌日になっても、待ち人は来ない。その間、二人は何をしたのか。考えつくありとあらゆる道化的な身振りとお喋りをして、真面目に退屈を凌いでいる。肝心の待っている人は来ないで、身振りとお喋りの連続がやって来たといった具合である。しかし、この身振りと言葉は通常の演劇のように、特定の人間の心理や感情、あるいは状況との密接な因果関係をもって表出されたものではない。これらの身振りと言葉の出所はあえて言えば、待つことの空しさと退屈の時間が生み出したものである。
 二人は長いことゴドーを待ちつづける。いくら待ってもゴドーは来ない。そもそも「ゴドー」とは何者なのか、当の本人だけではなく、観客にも分からないように書かれている。いつになっても来ない待ち人、これを何とするかは各人の解釈にまかされている。
 主人公である二人の浮浪者は何度か、行こう、この場を離れよう、という言葉を発するが、決してそれを行動に移すことはしない。言葉は言葉としてだけ話されるのである。この戯曲の最後はこう締めくくられている。
 ヴラジーミル じゃあ、行くか?
 エストラゴン ああ、行こう。
     二人は、動かない。   <幕>
 ここでの<行こう>という言葉は、<行かない>あるいは<行く場所が他には無い>という意味である。当然、舞台上での演技としての身体は、この言葉が担っている通常の意味から、対極にあるような存在の仕方をしなければならない。この戯曲が発表された当時、どのような衝撃があったのか、それまでの演劇史に於ける劇=ドラマというものの在り方と比較して見れば分かるのである。
 この戯曲が登場するまでの演劇人や多くの観客は、劇=ドラマとは目的をもった行動や激しい欲望の展開過程に湧き起こる特殊な人間の様態に在ると見なしていた。ギリシャ悲劇やシェイクスピアを思い出すまでもない。彼らの作品の登場人物は、異常で激しい行動と欲望に憑き動かされ、独特な人生を生きる。近代のリアリズム演劇と呼ばれるチェーホフやイプセンの戯曲でもその点では変わらない。ギリシャ悲劇やシェイクスピアの作品に比べて、登場人物の言動が、我々の日常生活に近しい状況で展開されるだけである。実際、近代リアリズム戯曲を舞台化する手法として考案された面のある演技術、スタニスラフスキー・システムも、人間の劇=ドラマは心理や感情の内にあり、その心理や感情はある個人の目的をもった行動や欲望が、他人の行動や欲望と軋轢を起こすから発生するのだと解している。
 「ゴドーを待ちながら」には、人間関係の葛藤や軋轢、それによって引き起こされる心理や感情をともなう行動が、殆ど描かれていない。あえて言えば、自らを待たせている対象が何かを知るすべがないままにも、それを待たずには生きることの出来ない人間、その孤独な様相が描かれただけなのである。
 待つという言葉には、来るべきものに対する予測と期待の心情が含まれる。そのための心の用意や準備があることを前提として使われることが多いのが、実人生の一般である。あるいは他人の行動を制止する時に、命令形として使うこともある。だから<待つ>とは、人間が何物かに拘束されている、心身の状態だとする見解も成立する。
 フランスの批評家ロラン・バルトは、<待つ>とは待機という拘束状態だととらえている。待機とは魔法にかけられたような状態であり、動くなかれという命令を与えられていることである。たとえば電話を待っている状態は、こまごまとした無数の禁止から織りなされている。部屋を出ることも、手洗いに行くことも、電話を使うことさえも、線をふさがないためにできないと言う。
 懐かしい譬えである。私も有線電話で育った世代、確かにこの経験はしている。たった3分の電話での会話のために、何と多くの時間を無駄にしたか。電話機を傍らにして、いつかかってくるか分からない電話を、ただ待っていることがどんなに退屈なことだったか。しかし当時としては、これも一つの人生修業、大切にしている人からの電話の場合、待つという拘束をどんな日課よりも、優先的に受け入れたことはある。そしてその待ち時間を、楽しくやり過ごす工夫をしなかったわけでもない。
 「ゴドーを待ちながら」の主人公たちの<待つ>は、これとは少し違う。来るはずもない人を、同じ場所で待ちつづけるのである。退屈なだけではなく、空しくさえ思える時間をオドケタ仕草やお喋りで埋めつづけるのである。確かにこれも、拘束の一つの様態だと見なすことはできるが、なんによって拘束されているのかが明らかではないだけ、この行為の空虚さは際立っている。
 携帯電話が登場し、コンピューターによるメールが可能になった現在、この<待つ>という言葉の意味の実態はずいぶんと変わった。まず一カ所で長時間も何かを待つ必要はない。私の若かった頃のように、汽車が遅れたために大事な用件で会おうとしていた人を、何時間も駅で待たせることもない。待ち時間や場所はすぐ連絡して変更ができる。メールを送って5分しか経っていないとしても、相手から返事が無くても、同じ所で待つ必要はないし、待つための時間を浪費しなくてもすむ。心身ともに待つことに於いて、場所も時間も可変的で自由になっている。
 現代社会では<待つ>ことの目的は、自分から創らなくても与えられる。退屈を紛らすための行動への欲望は絶えず刺激され、その手立てはいつでもどこにでも設えられている。それをグローバル資本主義の成果だと言っても良いが、そのことによって我々の人生から、拘束という様態が消失したわけではない。
 現在の我々は「ゴドーを待ちながら」に示されたような拘束状態の空虚さからは、免れているように見える。だがそれは、我々を拘束する対象が分散かつ多様化し、ますます不可視で非可触的になったからに過ぎないのではないのか。拘束としての<待つ>ことを、不可避性として受け入れざるをえない人生は、ゴドーという見えない人物が出現した時代よりむしろ、普遍的かつ強固に存在するようになっているのではあるまいか。
 現代を生きる我々は、何をどう待たされつづけているのか、この真相を新しい形式で問い直してくれる演劇の出現を必要としているかもしれない。