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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月11日 言行一致

 東北の大震災から2年、いまだ30万人以上の人たちが、生活した土地を離れ、避難生活をしている。死ぬまでになんとか自分の家に帰りたい、そこで死にたい、カメラに向かって激しく老人が語る。言うべき言葉がない。政府が禁止しようが、放射能があろうが、自分の思いのままにしたらとは、第三者が口には出せない。一人の人間が80年も生きてくれば、様々な思いやいろいろな事情があるだろう。安全な生活をしながら、無責任なことは言うべきではない。
 一方では株価が上がり、円安になったとはしゃいでいる人たちの映像を頻繁に目にする。これで日本の未来は明るくなったとまで、早々と口にする人もいる。震災で避難生活をしている人には、この現象はなにも明るくはないのではないか、と言いたくなる。生活物資は値上がりするのだから、この人たちの未来の生活はむしろ確実に暗くなる。復興の遅れの事実をないがしろにして、はしゃいでもらっては困るのである。慎みという日本語もあるではないか。
 また近ごろよく目にする言葉に、いじめや暴力、体罰や道徳がある。そのせいか新聞の紙面上にはこんな言葉が躍っている。道徳の教科化、いじめ対策法制化明記、体罰根絶へ部活指針。政府の教育再生実行会議が安倍首相に提言したそうである。ナニゴトカ! と思う。教科化、法制化、指針という以上、明文化されるのであろうが、その文章は誰が書き、どのようにして公的に決定されるのか、硬く大袈裟な感じもあり、少し笑いたくなる。
 安倍首相のスローガン、<美しい国>とやらがいよいよ全貌を現すのであろうか。どうせ文部科学省の官僚が作文するに決まっているのだろうが、記事によれば、有識者の会議が設けられ、意見を聞くらしい。有識者、ヘンナ日本語である。しかしそれよりもなによりも、道徳やいじめや体罰に有識者という人種がいるとは驚く。辞書を引いてみる。広辞苑では、その分野に精通し見識が高い人、日本国語大辞典では、広く物事を知っている人、が有識者とある。
 道徳といじめと体罰について精通し見識が高い人が、この日本に存在するなんて。ドウモ、シンジラレンである。そんな人が沢山いるとしたら、それほど慌てなくても良いはずではないか。そういう人たちが自ら名乗りをあげ、教育現場で実践して見せてくれるように、文部科学省は手立てをこうずれば良いだけではないか。道徳もいじめも体罰もすべて、行為行動の内に現れている価値観のことであり、知識として知ることのできないもの。経験として実際の行動によって生きられてから、その実態が確定されてくるものである。情報としての知識と、経験からえられた知識の間には、千里の径庭がある。
 特にいじめと体罰は、現場を生きている当事者の価値評価によって決められる人間間の行動のことであるから、その行動の当否は、当事者同士の主観性に委ねられる局面が多々ある。だから、その現場に同在していない第三者が、客観的な判断を持つことのできにくい性質のものである。こういう現場を実際に幅広く生きて、的確な判断力を身につけた有識者とやらが数多く存在しているのかどうか、もしいるなら会って話してみたいものである。現場への想像力も経験もないくせに、いじめや体罰についてのキレイゴトをしたり顔に喋りまくる、テレビのコメンテーターとやらにゾッとしているので、殊更にそう思うのかもしれない。
 安倍首相は教育の現状は危機にあるという認識らしい。日本が美しくなくなったのは、教育の故だとする勢いである。私は70年以上も生きてきた。その間にとりたてて、この日本に美しかった時期があるとは思えないのだが、再生と言う以上、安倍首相には実体なのか妄想なのかはともかく、なにか確信があるらしい。そして盛んに道徳心の涵養を口にする。
 私は芥川龍之介の言葉を思い出す。「道徳の与えたる恩恵は、時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である」最も著名な文学賞の名前を冠せられているこの作家が、何ゆえにこんなことを言わねばならなかったか。変化球の好きな芥川らしい皮肉である。たしかに道徳という言葉は、必ずしも人間に対して素晴らしい肯定的なイメージだけを提供してきた訳ではない。日本銀行発行の紙幣にまで登場した夏目漱石ですら、道徳とは習慣であり、強者の都合よきものが道徳の形にあらわれる、と述べている。道徳とは恐怖の産物だ、と言った西洋の小説家もいるぐらいである。
 しかしひるがえって、安倍首相が危惧するこの教育の危機状態は、本当に学校の現場に原因があるのだろうか。学校という制度や先生や生徒の精神の在り方、行動の倫理を手直ししたり、強化すれば解決する種類のものであろうか。むしろこれは、いつも有識者とやらに意見を聞いて、教育制度をいじくり回してきた文部科学省の無責任や、道徳の模範を行動で示すべき国家のリーダー、とりわけ政治家があまりにも不道徳だから、起こってきたことではないのか。そのために指摘したいことは多くあるが、一例としてあげれば、憲法に違反している選挙によって選ばれている存在だと、裁判所に何度も言われながら、平然とそれを無視してきた国会議員たちに、はたして本当に道徳のあるべき姿に言及する資格があるのかどうか、その一人である安倍首相に尋ねてみたい気がする。
 安倍首相は憲法を改正し、自衛隊を憲法に則った国防軍にしたいと言う。日本の首相は自衛隊の最高指揮官でもあるから、現今の日本を取り巻く国際情勢を思えば、その気分は理解できないこともない。しかし、よく考えてもらいたい。憲法違反をして存在している人が、どうして憲法の改正などということが言えるのか。これが道徳心に基づいた行為だと称しても、小中学生すら納得させられまい。これこそ、夏目漱石が暗示する厚顔無恥という強者の非道徳的な態度ではないのか。
 日本の戦前の軍隊は多くの愚行をしたが、それでも成る程と思わせられる、面白いことを言った人もいるのである。「やって見せ、言って聞かせて、させて見せ、ほめてやらねば、人は動かず」山本五十六連合艦隊司令長官の言である。
 私の職業の現場では、させて見せ、ほめるだけではダメだと思うが、ともかく自らやって見せること、皆がもっとも困難だと思うことに、出来不出来を厭わず、自ら率先して行動し、目標を示すことは大事なことである。そのエネルギーが心身から欠如したと感じた時には、求められない限り、他人に指図しないことが肝要である。言行一致ということだが、これはある種の職業の指導者や指揮官に要求される基本の態度である。安倍首相も口先で他人を扇動して、多くの人たちを死に追いやりながら、自らは率先して行動に移らなかった、戦前の卑怯な軍幹部の真似をしたいわけではあるまい。
 私も安倍首相に冗談半分で提言したくなった。日本が現在、こんな状態になったのは、自民党政権に大半の責任があるのではないか。まずそれを認めた上で、自ら範を示すために、大日本道徳大学院を設立して学長になり、国会議員、高級官僚、なかんずく検察、警察の幹部を生徒にして、日本中の学校の先生や生徒が感動し、見習いたいと思うような見事な教室を開いたらどうだろう。口先だけ達者な有識者などを頼らず、自身が行動し肉声で理想の人間の姿を語ってみてもらいたい。そういう情熱と説得力が発揮できたら、歴史に残る名宰相である。
 それもしないで、教育の荒廃や道徳心の欠如を嘆き、美しい日本の再生を願うだけなら、それは誰もが演ずることのできる、他愛のない一時のたわごとであるほかはない。