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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月3日 温泉稽古

 もう三日も風呂に入っていない、と若い女優が言う。稽古で疲れたし、銭湯へ行くのが面倒くさくて、と呟いている。それではと我が家の風呂に入ることを勧める。カラスの行水という言葉があるが、アッという間に出てくる。言い草がキドッテイル、否、少し大袈裟、アアー、コノタイハイ、明日からの稽古がユルンジャウ。
 もう40年も前の話だが、東京の下宿やアパートには、風呂がない所が多かった。皆、銭湯に通っていた。風呂に入ろうと思わないほど、稽古に励んでくれるのは有り難いことだが、今にして思えば、夜の遅い時間まで稽古をする私への、当てつけもあったかもしれない。行こうと思っても銭湯は閉まっている。今の若い人たちには、想像が難しいだろう。
 しかし、私も子供の頃は風呂に入るのは嫌いだった。特に物事に集中している時に、風呂に入れと親に勧められることほど、不愉快な気分にさせられることもなかった。折角の集中がユルンジャウのである。だから、温泉が好きなどという人の気が知れない、温泉などはボケタ人か、成り金の遊び人が、人生の憂さ晴らしにいく場所だと長いこと思い込んでいた。というより、そう決め込んでいた。温泉水の成分が、ある種の病気に効き目があるとか、イイカゲンナ、夏目漱石は伊豆で温泉に入り過ぎて、かえって健康を害したではないか、などと温泉好きを軽蔑していたところもあったのである。
 利賀村にも温泉がある、15年ほど前に出来たのだが、私はこの思い込みのために、風呂場を覗いたことはあっても、実際に入ったことがなかった。それが昨年からマメに行くことになった。凍てついた道路で転倒し、傷めた脚の痛みが治まらず、温めると少し楽になることを発見したからである。それだけではなく、露天風呂から眺める雪の山並みが素晴らしく、ボンヤリする気分の心地よさを味わえるようになった。そんなことを今頃に気がつくとは、まさしくボケ老人だと言われても仕方がない恥ずかしさだが、天竺温泉という名称のこの温泉、ともかく気に入った。
 今年度から、この温泉を運営する財団の理事長と副理事長が挨拶に来る。二人とも顔見知りの若い土建業者。村の人口は減少、近接するスキー場も今年から閉鎖、厳しい先行きだが、活性化のためにいろいろとガンバルのでよろしくとのこと。私もボケ老人になったがガンバル、その決意の表明として、今日は劇団員全員で風呂に入りに行く、御祝儀として入湯料を払う、これからますます村の宣伝もしまくる、と調子にのって出かける。
 露天風呂に浸かって、雪の山並みを眺めてイイキモチ。夕日が山に沈みかかる頃になって気がつく。かすかにピアノ演奏によるポピュラー音楽が聞こえてくるではないか。どうも私の気分にそぐわない。そこで湯船に共に浸かっていた男優の一人に、稽古中の流行歌を歌ってみるか、劇団員以外の客はいない、貸し切りみたいなものだ、遠慮せずに堂々とやろう、と盛り上がる。曲は美空ひばりの「今日の我に明日は勝つ」。歌詞は、生きりゃ女の哀しさが、生きりゃ男の苦しさが、逃れられない人生ならば、涙笑うな思いはひとつ、今日の我に明日は勝つ、である。
 どうも、音が狂っている。コブシが上手くない、気持ちが入っていない、もう一度やってみよう、男優は何度も歌う。しかしそのうち、私はのぼせてきて貧血、稽古はそれまで、調子にのった愚かさの報いであった。家にたどり着くと、ドッと疲れが出て爆睡。風呂の中で稽古場にいる時と同じ集中をしてしまったらしい。まさしく人生の素人、弛むべき時と場所ではユルムベキことを、今になって知る。ホントウニ、いつになっても人生は、今日の我に、明日は勝たなければならない、らしい。