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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月10日 助成制度のこと

 私は1990年に「舞台芸術への公的助成」という一文を朝日新聞に書いたことがある。芸術文化振興基金の設立をめぐって、演出家・劇団四季代表の浅利慶太と作曲家・桐朋学園大学長の三善晃が朝日新聞紙上で激しく論争をしていた。その応酬に割って入る形で、朝日新聞の依頼に応じて意見を述べた。その私の文章は、こんな経験の記述から本題に入っている。
 「この話になってからしばらく黙っていた私に司会者は、日本ではどんな制度になっていてSCOTはいくらもらっているのかと話を向けてきた。私は苦笑しながら、日本には芸術活動に対する助成制度が確立していないし、文化予算もたいへん少ない、SCOTへの助成はない、と答えたのだが、だれも信じたような顔をしない。それではどうして世界各地の演劇祭やこの芸術祭に参加できたのか、ときく。そこで、今回は国際交流基金からも文化庁からも渡航費の助成を断られたので、招待を受けることができないと主催者に言ったら、交通費、滞在費、報酬を含めて全額を負担してくれたと答えた。すると、司会者は冗談にこう言ったのである。それが世界に名高い日本商法ではないか。芸術祭にまで金を出さないで持っていく。観客は爆笑した」
 1984年、スポーツ・オリンピックの開幕直前に、オリンピック芸術祭がロサンゼルスで開催された。世間一般にはあまり知られていないが、スポーツのオリンピックには、それに付随して芸術祭が開催されることになっている。これは、オリンピック憲章にも記されているらしい。しかしあくまでもメイン・イベントはスポーツなので、どこの国でも添え物的な催しのように見られ、あまり目立たない。それに芸術作品はスポーツ競技と違って、勝ち負けを競うものではなく、大量の人たちを集めて興奮させるようなものでもないから、いきおい地味な催しにならざるをえない。
 私はこのスポーツ・オリンピックと同時に開催される芸術祭に、一度だけ参加したことがある。ロサンゼルス・オリンピック芸術祭である。当時この芸術祭は、オリンピック史上まれに見る大規模な芸術祭だと評判になった。フランスの劇団テアトル・デュ・ソレイユによる「リチャード二世」、イギリスのロイヤル・シェイクスピア劇団による「シラノ・ド・ベルジュラック」、それに私の劇団SCOTの「トロイアの女」が芸術祭開幕の演劇分野の上演作品だった。開幕前から、この三演目は演劇関係者の興味をひいた。何故なら、フランス人がイギリスの、イギリス人がフランスの、日本人がギリシャの戯曲、それも演劇関係者なら知らない人はないほどに有名な、古典作家の三作品を上演するからである。なぜ自国の戯曲ではなく他国の古典戯曲を演出するのか、ごく常識的な問いだが、そこがこの演出家たちの一筋縄ではいかない、向う意気のあるところでもある。
 冒頭に引用した一文は、芸術祭の初日の幕が開き、三人の演出家によるシンポジウムの一場面、国家の文化政策が議題にのぼった時の私と司会者のやりとりである。この議題にまず口火を切ったのがイギリスのテリー・ハンズ。イギリス政府からの助成金が減少しつつある、ケシカラン、とイギリス政府への憤慨を口にする。そこでアメリカ人の司会者が、公的機関から年間どれぐらいの助成金を受け取っているのかと尋ねると、彼は約25億円と答えた。そしてイギリス政府の文化政策批判を始めた。私は助成金の大きさにも驚いたが、国立の劇場の芸術監督が、外国の公衆の面前で激しく自国の政府批判を口にしたのにはさらに驚いた。というより唖然としつつ感心したと言った方が正確かもしれない。こういう場面では多くの芸術監督は、<お国自慢>をするからである。
 こうなると、アリアーヌ・ムヌーシュキンも黙ってはいない。彼女はフランス演劇界が誇る女性闘士、当時はフランス共産党系を代表する演劇人であった。
 最近の我々は、フランス政府からの助成金が少ないので、よく街頭デモをする。先日も劇団員と支援者がパリの大通りを練り歩いた。手をつないで大通りいっぱいに行進するフランス・デモをしたが、通行人のなかからも飛び入りで参加する人たちがあり、大規模なものになった。サスガ、フランス、私は驚く。というより、羨ましいかぎり。民間の一劇団が文化省に対して、助成金の出し方をめぐって大規模な反対デモをかける、当時の私にはこれは想像のできにくいことで、少し呆れたところもある。
 司会者は当然のことながら、フランス政府からの助成金はどれぐらいなのかと聞く。彼女は1億8000万円と答える。さらに司会者は、国家から多額の助成金を貰うことに疑問はないのか。あるいは政府とのトラブルは? これは実にアメリカ人らしい質問であったが、その時のムヌーシュキンの答え方は簡潔で見事だった。政府の支配しているお金は、国民のお金です。
 イギリスとフランスの二人の演出家の発言は、経済的な貧しさを訴え、もっと金が欲しいと言った訳ではなかった。自分たちの仕事は精神の公共事業として、十分に社会的な貢献をしている、それを政府はよく認識しろ、という自負を示すために言われている。私はヨーロッパの演劇人のプライドの所在を感じ、感銘を受けたのだった。今から30年も前のことである。
 しかし、この当時の日本の演劇人も、立場はともあれ、アメリカ人司会者の疑問に通じるような感覚を持っていたと思う。大部分のアメリカの演劇は、民間の興行資本か民間人の寄付によって成り立っており、州政府のレベルはともかく、国家からの財政援助にそれほどの依存はしていない。大学と同じで、国立の劇団などもない。演劇は国家の政治に左右されないために、可能な限り民間の自立した文化活動であるべきだし、そのことを理想とすべきだとしていた。
 アメリカとは違うが、日本の現代演劇もついこの間まで、特にその主流を形成した左翼系の新劇団は、劇団とその活動を国家から自立したものとして存続させることを目指していた。それはドイツに似て、第二次大戦中の政治指導者や官憲による、劇団活動への弾圧を経験していたからである。だから、国家の干渉に過剰に敏感、政府からの金は貰わない、彼らのよく使っていた言葉で言えば、そのことによって<お上の紐付き>にはならない、というのがその当時の日本の左翼演劇人のプライドだったと言ってよい。
 日本の政府が芸術文化団体を財政的に支援する公的な機関、芸術文化振興基金を創設するために動き出したのは、このシンポジウムの数年後である。この時、演出家浅利慶太は強力な反対論を朝日新聞に展開した。その主な論拠を彼の文章に即して引用する。
 「基金が求める助成要望書は以下の内容の提出を義務づけています。公演の趣旨、目的、意義、効果。<中略>演目、あらすじ、幕構成、主な出演者、スタッフ。そしてその内訳のなかは、原作、脚本、演出以下、15のセクションの責任者。これらが審査の対象となるわけです。こうなると助成を受けたい者は「お上の御意向」を気にせざるを得なくなります。この文脈から戦中の暗い時代や占領軍の検閲を連想するのは思い過ごしでしょうか」
 自民党の派閥の領袖や経済人との交友の成果を生かして、ミュージカルを興行として成功させた浅利慶太が、共産党や社会党を支持する左翼演劇人と同じようなことを言ったのには驚いたが、国家と芸術活動の二元的な対立構図を設定し、論を組み立てるのは少し大袈裟で単純すぎるのではないか、もはや日本はそのような時代にはないというのが私の認識であった。しかし彼はさらに、その文中でこんな発言もするのである。「劇団四季は、自由な芸術家の集団として、芸術の創造活動に関しての助成をうけることの代償に、国家機関からの“監督”や“必要な命令”を受けることをいさぎよしとしません」いささか誇張気味の言い方だが、劇団経営に苦しみながらも、ついに独力で東宝や松竹という興行会社に太刀打ちできるまでになった自信の発言である。
 この営業的成功の自信のためか、浅利慶太は三善晃が「大部分の芸術団体が恒常的な活動資金の困窮状況に置かれ、大部分の芸術家がその専門による生活設計を立てられないでいる」そのためにも芸術文化振興基金のみならず、公的助成の充実は必要だとしたことに過剰に反応する。芸術団体の資金が乏しかったり、芸術家の収入が少ないのは才能と努力がないことから起こることで、作品の質が高ければ客は入り生活は安定する、自らの芸術家としての未成熟を社会環境のせいにするのは、甘えと自己欺瞞だ、と断定するのである。ここで私は朝日新聞に書いた、公的助成への私の考えを引用する。
 「舞台芸術活動への公的な助成は、芸術家の活動資金そのものだけの援助にあるのではなく、観客が良い質のものに安く数多く触れる機会を提供するためにもあるということを忘れるべきではない。実際のところ、良い質の芸術ならば客は集まり、結果として芸術家の活動の場が保証され、生活的にも安定するということはありえない。良い作品でも悪い作品でも、宣伝力と販売網の組織化、それらを支える資金力があれば一定の観客が集まるのが情報化社会と資本主義社会の現実である。
 多くの人々に人気があるということと、質が良いということとは同じことではない。だからこそ、特定の舞台芸術家の人気だけに頼って、営利だけを追求するような商業主義にすべての芸術活動が傾斜しないように、欧米先進国では一定の条件さえ満たせば、公的機関からの助成がえられるのだが、それは芸術家への助成としてだけではなく、税金を支払っている人たちへの行政の責務として行われてもいるのである。それが自国の作品のみならず、外国から来た舞台芸術にも、一般市民が日本とは比較にならない低料金で接することのできる理由である」
 本来こういうことは、より良い国造りのための文化政策として、政治家と芸術家が対等に協力しあって実現させていくべきものである。だから浅利慶太の危惧するような、権力による人間の上下関係や、芸術家の言動の不自由が発生するようなものになったら、その制度は即座に消滅させれば良いのである。その戦いを避けないのが、芸術家としての自負でなければならない。そういう意味ではいずれにしろ、公的助成とはむしろ政治的なものであるべきだというのが、私の見解である。その点での私は、アリアーヌ・ムヌーシュキンの立場に近いかもしれないと思う。
 必要なものは堂々と政府や公的機関に要求する、国民が支払った金の使い方や配分の仕方が不公正だったり、文化庁や基金が創作活動への干渉がましいことをするなら、助成を受けていようがいまいが、文化庁や芸術文化振興基金と戦う、だからまず、振興基金設立それ自体に反対する理由はないというのが、私の考えであった。
 あれから20年が過ぎた。文化庁の芸術支援の予算も多額になり、相変わらず芸術振興基金はその活動を続けている。しかし、今になって見ると、その居丈高な態度と結論には賛同しかねるとしても、浅利慶太が政治家や文化庁、それに寄生するしかない芸術家へ発した警告の心情は、懐かしく思い出されるのである。
 確かに、文化庁と芸術文化振興基金の助成額が潤沢になり、それにより活動している劇団の数は増えた。しかし、そのことによって、芸術作品の質が上がっているとは私には思えないし、観客動員も増えた訳でもない。演劇界に限れば、仲間内で都会生活の退屈を紛らすことを、助成金が後押ししているに過ぎないように見える。その活動の多くは、何も国民・国家の現状や未来を背負ったものではなく、いつ消えても、誰も困らない程度のアマチュアの趣味的行為に堕したものである。にもかかわらず、私の劇団のそれなどより、ずっと高額の入場料金が設定されたりしている。これでは芸術振興などとは名ばかりで、東京の一部の演劇関係者が、仲間内で国民の税金をつまみ分けするために、基金が存在していると見なされても仕方がない。
 現在の芸術文化の助成制度は、激しく変わりつつある日本の社会と国際情勢を見据えた文化政策の観点から、そろそろ見直す時期に来ているのではあるまいか。