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鈴木忠志見たり・聴いたり

5月28日 ナサケナイ話し

 渓流に棲むイワナという魚がある。サケ科の一種だが地殻の変動により海に戻れなくなり、水温の低い河川の最上流に生息するようになったらしい。淡水魚にしては獰猛で昆虫やクモ、小動物やヘビのようなものまで食べてしまう。もちろん大きくなって餌が無いときなどは、自分より小さい子供のイワナも食べる。
 イワナのオスは年を経ると、下顎が上顎より前に突き出てひどく人相が悪い。だから、同類である子供のイワナを口に咥えて泳いでいるのを見ると、実に憎たらしくなる。口に咥えられながらも、子供のイワナがピクピクと身体を痙攣させている光景に接すると、尚更である。冬季に長らく家を留守にして、餌を与えなかった後によく見かけるのだが、この責任は自分にあるような気がして、両方のイワナに申し訳なくなる。
 そろそろイワナの骨酒でもしますか、民宿の主人は言う。1970年代の利賀村の冬、雪が積もる頃になると毎日のようにある、夜の宴会の席であった。私は当時の甘みのある日本酒は苦手、しかしこれも大事な付き合いだからと、盃に注がれるままに頑張って、もうそろそろ退席しようかという矢先である。明日も稽古がありますから、などといっても通用する雰囲気ではない。村長を中心に盛り上がった場は、都会の社交的な宴会とは違い、とうに時間の感覚は吹き飛んでいる。覚悟して腰を据える。
 イワナの骨酒、初めて耳にする言葉であった。フグの鰭に熱燗の清酒を注いだ鰭酒は味わったことはある。焼かれた鰭の香りが酒精の匂いに色を添え、こんな洒落たことを誰が考えついたのかと、それほどの回数ではないが、呑むたびに思ったものである。
 村長は美声が自慢、土地の民謡をにこやかに歌い始める。その最中に私の前に大きなどんぶりが差し出された。なみなみと注がれた酒の中に、骨だけではなく焼いたイワナが丸ごと横たわっている。下顎が突き出た死んだイワナの顔は、眼前に見るとかなりグロテスク、気味が悪い。それに生臭いのではと思い、私は呑むのをたじろいだ。しばらく村長の歌を聞くことにして、この骨酒を呑まずにやり過ごそうとしたが駄目、これは美味しいと何度も勧められるがその気になれない。しかしこれ以上は断ると失礼になるのではと思える頃に、意を決して呑んだのである。
 見た目と、味の良さ、香りの素晴らしさの違いに驚く。魚特有の脂と生臭い匂いはきれいに消えている。脂は熱い清酒にさらりと溶け込み、焼かれた皮の香りがアルコールの刺激臭を和らげている。カツオ節ならぬイワナ節をダシにした酒スープ、珍味という他はないものであった。時間が経つほどに魚の身が少しずつほぐれると、味のバランスは逆転し、魚入り酒スープは魚スープになってくる。嫌いな日本酒がゴクゴクと呑めたのである。
 寒冷地の清潔な水に棲む淡水魚の素晴らしさを、鮮烈に感じさせられたのはこの時が初めて、今や若い頃の懐かしい思い出だが、この思い出はそれ以来、私が時として確認しつづける教訓の一つになった。見た目で、物事を判断してはいけない、という。しかしよく考えてみると、この初歩的な人生上の教訓を、食べ物の経験から再確認させられたのは、ナサケナイかぎり。もし骨酒が美味しくなかったら、こんなありきたりの教訓を、再確認するはずもないのである。実に勝手なものである。
 食べ物の美味いか不味いかも、見た目で判断できないことは、人間の善し悪しと同じである。またもイワナに申し訳ないことをしたばかりでなく、演出家としての未熟、好奇心の大切さを思い知らされた一件である。