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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月9日 野生の力

 「首を胴より切り離して、ふたたび杖を鳴らし髪を振りみだす不埒な所業のできぬようにしてやるぞ」エウリピデスの「バッコスの信女」に登場するテーバイの王、ペンテウスの言葉である。なかなか激しいが、相手は女性たちに崇められる宗教の教祖=神ディオニュソス。この言葉の裏には、自分の支配する領土を他人に侵犯されている、と感じた人間の憎しみがある。
 ディオニュソスの教えを信仰するテーバイの女たちが、家を出て山に集まり、酒を吞んで乱痴気騒ぎをしているという情報がペンテウスに入る。その光景を覗いて見たいと、ペンテウスは現場に行き、信者の一人である母親に殺される。母親アガウエは血のしたたる生首をもって、テーバイの街に戻って来る。そして、誇らしげに語るのである。「わたしらはこの獅子(ペンテウス)を素手で捕えて、手足をば、ばらばらに引裂いたのですよ」これは普通の殺し方ではない。
 エウリピデスはペンテウスが殺害される現場を、目撃者の報告として克明に描いているが、その状況は殆ど野生動物のそれである。ライオンの家族が狙い定めた獲物を群れから引き離し、包囲して襲いかかる状況を彷彿とさせる。若く力のある武将が、そうあっさりと殺されてしまうものかと、納得できないところもあるが、そこはフィクション、劇的な事件の本質を象徴的に浮き上がらせようとする作劇上の手立て、日常身近な生活感覚に引き寄せて考えても仕方がない。
 リアルに考えるとしたら、集中すると女性には馬鹿力が噴出するらしい、彼女たちにはまだ、文明の毒におかされない無意識という自然、稲妻や津波のような野生の力があって、それが身体に乗り移り、攻撃衝動を全開させたとでもしておくのが良いのではなかろうか。原始女性は太陽であったとか、東北の大震災は天罰だ、などという人までいるのだから。
 私は身近に、そんな激しく強そうな女性は見たことはないが、一瞬の殺しの場面を強烈に燃焼して生きるのではなく、手の込んだ手口でジワジワと人を殺す、情けなくもおぞましい殺人事件はよく報道されている。尼崎や福岡の連続殺人事件は、その殺し方を知ると、逆に衰弱した人間の攻撃性の袋小路を晒していて、惨めな感じのものである。しかし、不思議に思うこともある。殺された人のなかには、激しく反撃したり闘った人はいないのであろうかと。
 最近の日本の殺人事件では、殺される方があまりにもおとなしいのに驚く。暴力はいけない、感情的になるな、などという言葉に騙されて、日本人は強制された状況に素直で、他人の憎しみや悪意の行動に、身体的に反撃できない人間になってしまったのかと少し心配になる。
 しばらく前のブログで、病気で死んだ貂のことを書いた。その後すぐ、小さな貂がまた我が家の檻に入った。下顎は食いちぎられ、歯は剥き出しになり、片目は潰れている。自然界の生存競争に敗れた姿である。餌を食べるのも不自由なほどだったが、薬を与えたりしているうちに元気になったので山に帰した。
 しかし、四日後にはまた戻って来て、檻の中にいるではないか。片目は開いているし、食いちぎられた部分の肉も盛り上がって元気そうに見える。それなのになぜまた戻って来たのか、ひょっとすると私が既に飼っている貂が、家族かもしれないと思い、見比べてみると顔が実に良く似ている。そこで同じ檻に入れてみた。もし諍いを始めたら、すぐ引き離せばと軽く考えたのである。
 五日ほどはお互いに寄り添ったり、寝そべったりして仲良くしているように見えた。推測したとおり、家族かもしれない、これは微笑ましいことをしたと安心し、たえず観察しなかったのが愚かであった。お互いに遠く離れた檻の片隅で、寝ていることもあったのである。
 六日目の朝、餌を与えようと近づいてビックリ。後から檻に入れた貂は、首と前足がしっかりと胴より切り離され、散乱する毛の中に無惨に横たわっている。そして勝者の貂は、その傍らで前足を立て、腰を据えて私をじっと見上げ、身じろぎもしないで座っている。殺した貂の肉を食った形跡もないのである。
 何がきっかけでこんな激しい殺し方になったのか。動物の行動を比較研究する学問の創設者でありノーベル賞受賞者、ローレンツの言葉を思い出した。野外では<類は類をもって集まらない>という原理が、血を見ないやり方で実現されている。海中では敗者は勝者のなわばりから逃れ、勝者もそれを深追いしない。しかし水槽の中では逃げ場がないから、勝者は敗者をてっとり早く殺す。そうでないまでも、勝者は自分のなわばりとして容器全体を要求し、相手を絶えず責めさいなむので敗者の生長が遅れ、勝者はさらに優勢になり、ついには悲劇的結末がやってくる、というのである。これは閉鎖的な環境での領土問題であったらしい。
 憎しみによって解発された攻撃本能の凄まじさは、ただ相手を殺すだけではすまない。逃げ場を失った相手の、五体まで引き裂かなければ気がすまない所までいく。この凄まじい殺意の出所と正体を、エウリピデスも「バッコスの信女」で書いている。古代ギリシャ人が、自分たちの内にある野生の力=生得的な攻撃本能を深く自覚しながらも、いかに人間として生きていくかを考えた成果が、ギリシャ悲劇の見事なところだと改めて思う。