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鈴木忠志 見たり・聴いたり
8月6日 マケタクナイ
劇団を組織し、演出家としての道を歩み始めた初期の頃の私は、俳優を教育するなどとは考えてもみなかった。私には自分が描く舞台上のイメージを、実現してくれる俳優が居ればよかった。それは当時の世間が、一般的に俳優と呼ぶ存在とは違っていた。むろん私も稽古場では、身体的にも音声的にもいろいろな要求を俳優に突き付ける。私の描く舞台イメージの実現という目標に向かって、技術的な訓練はしてもらう。しかしこれは、私が演出する舞台のための共同作業であって、俳優を教育しているという実感からは遠い。
稽古場では、私が知りうる限りの、私が出来うる限りの、身体的・音声的な目標を俳優に示すこともあるが、これは演劇界の俳優一般のための演技指導や教育とは違っている。自分の欲望実現のためにのみ、激しく俳優に要求している、といった種類のものなのである。
その私が初めて俳優を教える、いわゆる教育をすることになったのは1980年、ウィスコンシン大学のミルウォーキー校からである。大学の劇団の俳優に演技の訓練をしてほしいと頼まれたのである。その訓練の授業の評判が良かったのか、それ以降ニューヨークのジュリアード音楽院、カリフォルニア大学のサンディエゴ校と全米の大学から立て続けに教育活動の招聘を受けることになった。ジュリアード音楽院には1981年から3年連続で出かけている。
当時のことを思い出すと、今でも少し恥ずかしくなる。よくも教えに行ったものだという感慨にも襲われる。なにせ40代の前半、演劇についての学問的な蓄積も実践的な経験も、それほどあるわけではない。そもそも演劇というものを首尾一貫して勉強したことがない。だいたい私は政治経済学部の出身、しかしそれだって、殆ど授業には出席せず、まともに大学を卒業できなかった人間である。演劇だけではなく、すべてについて無手勝流、且つ独学である。
だから、初めて招聘状を手にしたときには、教えるなどとはとんでもない、とたじろいだことは当然。日本ですら教えたことがないのに、どうしてアメリカ人に教えることができるのか。それに相手は演劇の知識ではなく、身体や音声の実践的な技術を教えろというのである。これは、メチャクチャダ、と感じたのが正直なところ。デハ、ナゼ、と問われると思うが、当時を思い出してみると、タダ、タダ、コウキシン、と答える以外にはないようである。その好奇心に身をまかせる気合があった、言い換えれば、若者の無謀という特権に身をまかせた、馬鹿勇気があったということであろうか。
しかし、それだけが私を初めての行動に駆り立てた原因ではない。ベトナム戦争敗戦の後遺症によって、いささか衰弱しているように見えたアメリカ人が、オオキク、デテキタ、と感じたからである。その大きさに、貧乏根性の島国で育った私は、アッサリト、負けたのである。
私の劇団は個人劇団、私の演出作品を上演するためだけに結成されている。俳優も私の理念と舞台に興味を抱き参加していて、いろいろなタイプの舞台に出演したいと思っているわけではない。テレビや映画に出演して、話題になりたいなどとも思ってはいない。いつも私と一緒に利賀村で稽古し、日本だけではなく世界中を公演してまわり、その活動によって、劇団員全体の日々の経済生活が成り立っているところがある。だから一カ月近くも、私だけが個人として劇団員と別行動をすると、私個人の収入はあっても、公演活動によるそれはないから、劇団員に月々の手当が払えなくなる。それに私個人の仕事への報酬を、劇団員全員に配分してもわずかなものにしかならない。
そこで私はアメリカの大学に言ってみた。私の劇団は私と一心同体、私が一カ月近くもアメリカへ行くと、劇団員はヒマになるだけではなく無収入になる、この事情を考慮できないか。どうせ私の報酬に若干の上乗せをするくらいだと考えていたのだが、これがオオチガイ。アメリカの大学の返事には次のような質問があったのである。劇団員全員の一カ月間の報酬はいくらか?
日本中がバブル経済に浮かれていたとはいえ、我々の仕事には縁のないようなもので、当時の劇団員全員の報酬の総額といっても、一般の人たちの収入から比べれば、恥ずかしいようなものである。それでも私の年収を越える金額だったが、私個人への報酬という形式で全額を支払ってくれた。ウィスコンシン大学の学部長が、私の劇団のヨーロッパでの独自な評価のされ方を熟知していて配慮してくれたのだが、この決断の素早さには圧倒された。アメリカによる最初のアッパー・カットであった。
これは30年以上も前のこと、私は現在のアメリカという国をとても好きにはなれないのだが、この時のアメリカ人の大きさには感動したし、感謝の気持ちは今でも湧いてくる。そして同時に心の中で思う。このアメリカに、マケテハナラナイ。