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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月12日 ヤギの牛乳

 第二次大戦終了前、小学校へ入学するまでのしばらく、私は寺へ預けられていた。清水市郊外の山の中腹にあり、長い石段を上って行くと、小さいが見晴らしの良い本堂が建っている。私はその本堂の一隅に寝泊まりしていた。
 清水港は軍港にもなったから、米軍による空爆だけではなく、軍艦による砲撃があった。空襲の方は飛行音がしてから後の爆撃だから、家から逃げ出す時間があったが、艦砲射撃は突然に砲撃の音がする。ズドン、ズドンという音は、爆撃の炸裂音とは違って、恐ろしいものだった。父親は自分の職業の他に、消防団の団長を兼ねていたから殆ど家に居ない。それで私を安全な山寺に預けたのだと思う。
 この寺の生活は縁側を駆けずり回ったりして楽しかったが、怖いこともあった。便所が遠かったからである。便所は本堂の裏庭の片隅に建っていた。灯火管制もあって夜は真っ暗。山中の暗さは、月や星が見えない時は漆黒である。この闇の中を便所まで行く時が怖い。典型的な和式、シャガンデ排便をすると尻の下の方からドスッという音がかすかに聞こえる。時としてはオツリが跳ね返ってくる。掘っ建て小屋のような透き間だらけの便所だから、ヘビにでも裸の尻を噛まれるかもしれない、すぐ側には墓石も並んでいる、幽霊が出たらどうしよう、などと考え出すと落ち着いてウンチもできず、ソソクサと逃げ帰ったりした。ソシテ、子供心に言い聞かせる。想像力を殺せ、カンガエナイコトダ。
 初めて利賀村へ来て劇場にした合掌造りも、同じような便所の作りで、懐かしくその頃を思い出したが、こちらは寝室から遠く不便ではあったが、同じ家屋のうちにあり怖くはなかった。
 この山寺の生活で一番楽しかったことは、寺の住職がヤギを飼っていて、その乳を毎日、飲ませてくれたことである。独特の臭みがあったが、それがかえって野生を感じさせられ私は好きだった。空襲と昔の和式の便所とヤギ、これが私の幼児のころの強い生活の記憶、今やなかなか出会えないものばかりである。
 昨年、アジア諸国の大学や芸術機関の要請もあって、アジア・アーツ・センターという新しい名称の組織を設立した。日本がアジアに貢献できる文化拠点としての利賀村にしたいという思いもあってのことである。この利賀村のすばらしい環境と施設、外国人にも開かれた共同作業のしやすい運営システム、これらがアジアの人たちには羨ましいようである。いずれはここに、日本・中国・韓国との共同で、舞台芸術の国際的な学校を創ろうという提案もされているのだが、こういう大きな構想が実現するためには、杓子定規で新しいことに及び腰の行政機関だけでは成立はむつかしい。自分の住んでいる国や地域を、誇り高いものにしたいという民間の方たちの理解と応援が必要である。さいわい北日本新聞社の河合隆会長やYKKの吉田忠裕会長が積極的に応援してくれて、アジア・アーツ・センター支援委員会が先頃発足し、その委員長に吉田さんが就任してくれた。
 思えば吉田さんとは不思議で長い付き合い。私がカリフォルニア大学と共同で図書館を建設する計画を進めていた頃、YKKの副社長であった。ある日YKKの創業者で先代の会長、吉田忠雄さんに会わないかと誘われ、黒部の本社に会いに出かけたことがある。私が図書館建設のための資金集めに苦労しているのを察しての、配慮であったと思う。
 どこの企業でも創業者というのは個性的で魅力があるらしいが、吉田忠雄さんもまさしく然り。親子ほども違う初対面の若い私に、トウトウと自分の経営の哲学について話しまくる。日常的な無駄の無い話し方に巻き込まれ、私も負けずに、ナゼ、トガムラカ、を力説しまくった。経営者と芸術家、話にそれほどの接点があるわけではない。ただ吉田忠雄さんが独自の哲学を情熱的に話すから、私も盛り上がって、私の信念のようなものを話して別れた。建設資金の話など持ち出す暇もなかった。しばらくしてから吉田忠裕さんに、一言も建設資金の話もせず、何のために引き合わせたのかと笑われたが、魅力的な人に出会うと私はいつもそうである。楽しい人に会い、会話が弾んだら余分な話はしたくなくなる。むろんその後で、私の劇団のプロデューサー斉藤郁子には、いつも苦労をかけてきたことは自覚している。
 この吉田忠裕さんが最近、ヤギを飼っている。きれいな身体のヤギの写真と、ビンに入った山羊乳を送ってくれた。まだ始めたばかりの事業らしいが、その話をする時の嬉しそうな顔は忘れられない。企業家というものは新しいことを始めると、初々しくてイイナーと感じる。その点は、私たちが新しい舞台作品を創造する時の気分に近いのではないかなどとも想う。
 先頃、その吉田さんに会う機会があったので、さっそくお礼を言う。ヤギの牛乳をアリガトウ。即座にタシナメラレル。牛乳ではありません、ヤギミルクですよ。生活上の慣れというものはオソロシイ。山寺では私は確かにヤギノチチ、と絶えず言っていたのである。山寺の生活を離れてから数十年、ミルクといえば私はずっと牛乳を飲んできた。その故であろう、動物の乳はすべて牛乳という呼称になってしまったらしい。そのうち、馬の牛乳なんて言い出しかねないと考えると、やはりゾッとするのである。
 生活上の慣れに、最大の危機を感じとる感受性の維持、これが演出家を演出家たらしめる大事なことなのに、このテイタラク、いささか反省している。