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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月21日 世界例外基準

 いよいよSCOTサマー・シーズンが始まる。今年からついに念願の入場料という概念を捨てる活動に入る。利賀村へ来てから38年、長い道程だった。
 演劇を通じて世直しの一助になりたい、そのためには絶えず日本社会の否定的と思える精神的な側面に、批判的に向き合える場所が欲しいと東京を離れた。これは必ずしも他人のことばかりを言っているのではない。自分の心に対しても同じである。だから少しでも、自分の活動の姿が人々の目に、鮮明に映るような場所に立ちたい、そしてその初志がブレナイようにしたい、ゴマカセナイようにしたい、と思ったのである。集団で活動することの苦しさや辛さ、もちろん喜びもだが、そういう事態に足をとられて卑怯な振る舞いだけはしたくない、言い方を変えれば、言行不一致であることの恥ずかしさに、鈍くなれない位置を私なりに探してのことだった。それが山奥の過疎地という選択になったのには、私が生き育った時代の特殊性と環境があったとは思う。
 しばらく前、グローバル・スタンダードという言葉が流行ったことがある。翻訳すれば世界標準、世界統一基準だろうが、経済界から流出してきたこの言葉に、日本人はずいぶんと躍らされた。それは今でも手を替え品を替えて表れているが、この言葉がもたらした害毒は放射能にも匹敵するほどのものだった。ナンノコトハナイ、その実態は金儲けのルールを統一したいとする、アメリカの国家的野望に従おうという掛け声にすぎないことだった。これを精神的な側面で見れば、堂々とであれ隠れてであれ、金を儲けた人が立派で、社会に役に立っている人だと見做せという価値観のことだったのである。そしてその価値観は、英語とITを身につけることによって成就されるという強迫観念が、マタゾロ日本の<政・官・財>の一部に蘇っているように見える。
 金を儲けるためには日本という国民国家を崩壊させても、グローバル・ジャパニーズを生み出せ。幼少時の教育現場にまでこの掛け声が押し寄せていくのも、そう遠いことでもなさそうである。これからの小中学校の先生は、生徒の卒業時に言うことになるかもしれない。グローバル・ジャパニーズになってお金を儲けたら、日本人の先生にも少し、オコボレヲ、チョウダイネ。先生という職業の人は、オチコボレ日本の代表という寂しい存在にならざるをえなくなる日も近いと思える。
 英語とIT、世界例外基準をずっと生きてきたとはいえ、私も外国で仕事をしてきたから、これらに助けられなかったわけではないが、私の自覚とすれば、これはただ必要に応じて付き合ってきたもので、自分が生きていくために不可欠のものだなどと思ったことはない。これらに接触してその渦中を生きていると、たしかに時代の先端を波乗りしているような気分になることもある。しかし同時にこれは、タダノ、ゲンザイ、奥行きも深さもなく、ただ流れ去る時間にすぎないと感じてもいたのである。
 そのためもあってか、自分の過去を殊更に思い出したくなることも多かった。現在の自分を、カク、アラシメタ、過去が在り、その過去との連続性で存在する自分の心の在り方も見極めてみたくなるのである。それが私をして、古今東西の戯曲を舞台化させたり、現在から過去を顧みるような、多くのブログを書かせてきた理由のような気もする。自分のアイデンティティを確認してみたかったということであろう。
 今夏のSCOTの作品も、日本の過去を現在に呼び戻して、日本人である私は、何をどのように捨てたり失ってきたのか、を問う作品ばかりになった。もう呼び戻す必要のないものもあるし、失って痛恨の思いのするものもある。ともかく日本的グローバリゼーション志向が捨て去ることを要請する、自国の歴史と記憶にこだわり、それを視聴覚的・批評的に浮き彫りにすることを試みてみた。流行りの言葉にあやかれば、私なりの歴史認識と現状分析の一端を、披瀝したということにもなろうか。それも心情や美意識あるいは精神としての日本人の歴史である。
 また6カ国の人たちによって結成された、インターナショナルSCOTの人たちが、初めて舞台作品を発表する。この舞台の俳優たちはすべて、自分が所属する国の言葉で演技している。これも安易な日本人のグローバル・ジャパニーズ志向への、批判の一端になっているかとも思う。これらの作品が何ほどか、観客の皆さんに刺激的であることを願っている。