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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月15日 蘇った時代

 久しぶりに村の運動会の後の宴会に出る。開宴には少し遅れたが、元村長や元村会議長などの座る席に案内され酒を酌み交わす。100人ほどの人たちがいくつかに分散したテーブルを囲んで酒を吞み、鉄板で焼いた野菜や肉を食べながら懇談している。ざっと見渡すと殆ど私より年長の人ばかり。顔見知りでない人たちもいたので尋ねると、今年になって赴任してきた小中学校の校長先生や、森林組合の仕事で村外から働きに来ている人たちだと聞かされる。
 元村長も元議長も私より年上だから老けてはきたが、元気そうに見えて安心。この二人は相変わらず酒が強いのに驚く。前立腺の手術をした、耳が遠くなった、糖尿病だとか言いながらも活発に喋り盛んに吞む。これぞ利賀村、さすが利賀人とヘンニ感心してしまう。
 久しぶりだったためか、入れ替わり立ち代わり村人が私に酒を注ぎに来る。断るわけにもいかず、少し口をつけてはそれ以上吞むのはカンベンしてもらう。現在の私は酒を多量に吞める身体状態にはないから、この利賀村の宴会にはケイカイ、ケイカイと自分に言い聞かせる。お酌攻勢に対応し過ぎて二日酔いになり、稽古ができなかった記憶も蘇る。
 しばらくして、10曲ほどの歌謡曲の歌詞が書かれた一枚の紙が全員に配られる。「青い山脈」「東京音頭」、美空ひばりの初期の曲「港町十三番地」から「憧れのハワイ航路」「ああ上野駅」まである。いつの時代に戻ったかとクラクラするものばかり。「ああ上野駅」の歌詞を書き出してみる。
 「どこかに故郷の香りを乗せて、入る列車のなつかしさ、上野はおいらの心の駅だ、くじけちゃならない人生が、あの日のここから始まった」青森生まれの寺山修司だったら、この歌詞をダシにして、日本の近代化の問題点や若者の人生についてのヒトクサリでも捻り出すだろうが、私はこの当時の上野駅には何の思い出も感慨もないから、今はタダ、ワラウダケの言葉になってしまう。
 コレハ、イッタイ、ナンナンダ。そう思いながら書かれている歌詞を読んでいると、派手な衣装を着て、帽子を被ったり傘をさした男女8人、オジサンとオバサンばかりが現れ、カネ、タイコ、トランペットなどで歌舞伎の登場人物に材をとった「お富さん」の曲を吹き鳴らし練り歩き出した。ようやく解る。チンドン屋の演奏にあわせて歌い、宴会を盛り上げるために配られた歌謡曲の歌詞だったのである。78歳の元村長は紙を見ながら、この歌は残らず歌えると言い、立ち上がって「銀座の恋の物語」を村の主婦の一人と腕を組んで歌う。
 この光景を眺めていると、中学校の音楽の先生を退職し、現在は4人の孫の世話に忙しい旧知の女性に誘われる。スズキ、センセイ、「港町十三番地」イッショニ、ウタイマセン? 「長い旅路の航海終えて、船が港に泊まる夜、海の苦労をグラスの酒に、みんな忘れるマドロス酒場、ああ港町十三番地」私も今や74歳、いくら美空ひばりに興味を持った一時期があるとはいえ、この歌詞を女性と共に人前で歌う気にはなれない。
 しかし、ここに集められた流行歌の歌詞の殆どが、賑やかな場所に関係しているのは面白い。東京、上野、銀座、横浜、ハワイ、具体的な言葉は出てはいないが、「お富さん」は歌舞伎座とすることはできる。日本が高度経済成長する以前、田舎の貧しさの彼方、ここではない何処か、都会に楽しくロマンのある人生が存在するとする心情をかき立てるものである。別の言葉で言えば、東京一極集中を潜在的に準備した頃の歌だと言ってもよいかもしれない。
 ここにはこれらの歌の後にヒットした、東京を遠く離れた場所の歌曲、例えば「長崎は今日も雨だった」の南の淋しさや、「襟裳岬」「津軽海峡冬景色」などの北の悲しさや暗い心情を歌うものがないのである。むろんこの宴会が、これらの歌が歌われるに相応しい場でないことは言うまでもない。私は森進一の歌う「襟裳岬」を、1978年に岩波ホールが制作した舞台、エウリピデスの「バッコスの信女」を演出した時の幕切れに使っている。歌詞は次のようである。
 「北の街ではもう、悲しみを暖炉で、燃やしはじめてるらしい、理由<ワケ>のわからないことで、悩んでいるうち、老いぼれてしまうから、黙りとおした歳月を、ひろい集めて暖めあおう、襟裳の春は、何もない春です」
 この歌は100万枚の売上を記録し今でこそ、この歌の歌碑が建っているが発売直後には、えりも町から作詞家のもとに、襟裳の春は何もない春とはナニゴトカ! と抗議がなされたと言われている。
 私より年長の村人たちが朗らかに歌うのに接し、日本社会の来し方を顧みさせられ、流行歌にも親しんでおいて良かったと改めて思った。