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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月26日 集団の衰退

 1980年代の初め、演劇に関する小さな辞典が刊行された。少し気になって、本屋で立ち読み、鈴木忠志の項を引く。ナント!演劇を過疎対策に使った第一人者と書いてあるではないか。<使った>とはオソレイッタが、私は冗談半分に、ツブヤク。これは逆だ、過疎対策を演劇に使った第一人者と言うべきではないか。人口減に苦労していた当時の村長には、申し訳ないような冗談ではあった。
 この時代、日本海側から太平洋側への人口の大移動が起こる。特に関東平野への集中が激しく、日本の国土の均衡ある発展を願う人たちは、山村部の地域振興の必要性を叫んでいた。当時、秋田県などは年間5,000人もの人口が流出、だから私が東京を離れ、活動の拠点を利賀村へ移したことを、地域活性化の掛け声に呼応した行動だと思ってしまったのだろう。人生も演劇も生半可に生きている執筆者ではある。地域振興ならマダシモ、過疎対策のために演劇活動をするとは、チョット、サビシイではないか。筆者よ!もう少し、マジメニ、ヤッテクレーである。
 今夏のSCOTサマー・シーズンでの恒例のトーク、私の活動を<村おこし>に結び付ける発言があったので、私はすかさず、<村おこし>なんてやってませんよ、私は<日本の国おこし>をやってるんです、と咄嗟に強く答える。このリキミ、演劇辞典から受けたショックの後遺症が残っていたのかも。
 むろん私は、過疎対策に協力しなかったわけではない。村長と共に補助金の獲得のために陳情に行ったり、村民人口の増加に少しでも貢献できたらと、劇団員の多くと共に、村に住民票を移した。実際のところ今でも、私は南砺市利賀村民である。しかしこれは、世話になっている村人への連帯感の表明、生活世界の義理人情から発した行為で、私の演劇活動の精神とは直接には関係のない事柄である。
 このトークの最後にこんな質問が出た。劇団とは何だろう?単純で素朴な質問のように見えるが、これは現在の日本の演劇状況を語る時に、必要で本質的な問いである。私はおおよそ次のように答えた。
 劇団とは一定の社会認識を共有した人たちが、社会制度の変革や、人間の意識変革のために同志として結束し、演劇活動をその手段とした集団である。1960年代までの演劇界の特徴としては、突出した一人のリーダーの理念や思想に賛同した人たちが集まって、劇団は結成されている。単なる演劇愛好家の集団ではない。この点では集団の目的は鮮明であり、政治党派や宗教教団と似たような結束の仕方をしていた。しかし近年では、こういう劇団は日本に殆ど存在しなくなった。集団自体の形成原理が変質してしまっている。現在の日本の多くの劇団には、変革への理念と、それに基づいた闘争戦略を見いだすことができない。だから、社会的な文脈で見れば、その存在意義は限りなく薄い。
 演劇評論家協会が発行するシアターアーツという雑誌がある。その最新号の巻頭に、編集長の次のような一文が掲載された。
 「今どき宗教と言うと、何やら怪しげな集団に思われがちだが、観客との対話の中で鈴木が語った言葉が、今回の観劇無料化に至った背景を説明していた。鈴木によれば、利賀村でのSCOTの活動は演劇活動ではなく社会活動であり、その活動のひとつとして演劇公演をやっている。そもそも劇団というものは、ひとつの理念の元に同じ志をもつ者が集まって、その理念を実現するための手段として演劇をする集団だ――。
 劇団というものがアプリオリに芝居をする集団というイメージでいた私は、虚を突かれた思いがした。ここには社会と芸術の変革を目指した60年代演劇の熱が、マグマのようにくすぶっているのではないか」
 私の発言を率直に受け取ってもらえたことは本望だが、演劇評論家協会の発刊する雑誌の巻頭に、今頃こんな感想が登場することにむしろ私は驚く。私の方が虚を突かれる思いである。東京を中心とした日本の演劇界の混迷と活力の衰退は、私の推測以上にひどいのかもしれない。
 むろん、明確な社会像への理念と具体的な戦略・戦術を提示できる集団、そしてそれを果敢に実行できる、結束力のある集団がなくなってきたのは、演劇界だけのことではない。政治や宗教の世界でも同じであろう。