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鈴木忠志見たり・聴いたり

12月20日 自らを知れ

 ギリシャ中部コリントス湾を望むパルナッソス山麓に、デルフォイという町がある。激しい断崖に沿って展開する小さな町だが、アポロンの神殿や古代競技場の遺跡があり、古代ギリシャの聖地、現在は世界遺産に指定されている。1985年、私はこの古代競技場で「トロイアの女」を上演した。それが縁で1986年、利賀村はデルフォイと姉妹都市になった。
 このデルフォイのアポロンの神殿には、あの有名な格言「汝自らを知れ」という言葉が刻まれていたと言われている。他人のことよりも、自分のことをよくわきまえろ、ということらしいが、ソクラテスはこれを、自分の分限を心得て、精神を冷静に鍛え、身の振る舞い方の倫理を確立することだと解し、多くの人々にこの言葉を愛させることになった。
 今更、こんな言葉を思い出し、世を憂うるのは、イササカ恥ずかしいのだが、最近のテレビや新聞を見たり読んだりすると、間断なくこの言葉が浮かんできて、まるで学生時代の青臭い哲学青年に戻ったような気分になる。特に東京都知事と自民党幹事長の顔や発言に触れると、イタタマレナク、こちらの居所がなくなるほど。
 ウツロな表情でしどろもどろに前言を翻す顔や、旧共産圏やファシストのリーダーかと思わせるほどのイイキナ発言と、ヒトヲクッタような顔、古代のギリシャ人は偉かったと改めて感心する。この日本人リーダーの精神的抑制のないモラルとニブサは、いつ頃から、どのように起こり出したのか。この現象はどうやって乗り越えられるのか、日本の政治史に詳しい人にでも教えてもらいたいものである。
 安倍内閣は外交や安全保障のための、国家安全保障戦略を策定したそうである。これから激動が予想される国際情勢、そういう環境においても、我々が住む日本が安全であるための方策を模索する必要性を、否定する人はいないだろう。日本の安全は、軍事力の強化による防衛力によって担保される。国家の存立は、他国からの侵略や脅威に対抗する意思と能力があることを、軍事力によって外国に示すことによって保証される。この安倍内閣の基本認識と、それに基づいた具体的な方策については、これからの議論に期待しないわけではない。
 しかし、今の段階で不審に思うこともある。この国家安全保障戦略の文書に「我が国と郷土を愛する心を養う」という文言があるからである。この一文からは、日本には未だ郷土があり、これからも存続することを前提にしているかのような印象を与えられる。と言うより、この懐かしい響きをもつ言葉が、いかめしい行動計画を口当たり良くするために、添え物のように気楽に使われている気がするのである。
 私の了解では、国家と郷土とは異なる。郷土とは民族の原郷、身近になじんだ動植物が共生する自然のある土地であり、祖先が生活し、同胞が相互扶助の精神に基づいて築いた、歴史を持つ共同体の存在する土地のことである。この多様な郷土を、国民意識統合のため経済成長を最優先の価値観にし、都会への人口集中と、地方への公共事業の財源のばらまき政策によって、国土を画一化し消失させたのが自民党政治である。その結果、郷土という言葉自体は、もはや死語に近くなったとしか思えない。東京や大阪のような大都会が、日本人の郷土だと言いなすのなら話は別である。
 実際のところ、日本には限界集落と呼称される、年齢65歳以上の人たちが人口の半数を越える地域が無数に出現した。そしてその地域は、ただ滅びゆくのを待つだけなのが現実である。どこに愛さなければならない郷土などというものがあるというのか。日本の国土の57%は人口の過疎地である。荒れ果てたその地域には、日本の全人口の10%にも満たない人々が住んでいるに過ぎない。
 この国土の現状を顧みるならば、郷土を愛する心を養うなどとは、どういう根拠から発想されているのか、不思議としか言いようがない。この発言は政治の本来として、逆ではないのか。郷土が存在し、それを愛する心があるからこそ、他国の侵略や脅威の可能性には、あらゆる努力を尽くして同胞の安全を守ろうとするのではないのか。軍事力を増強し、戦闘能力を高めるためだけに、在りもしない郷土を愛する心を養えとの、カケゴエをかける。これもやはり、ニンゲンというものをナメタ態度のように思えて仕方がない。愛さなければならないのは、国家や郷土ではない。まず、そこに住む国民であり同胞である。郷土という言葉を使うなら、その再生に力を尽くすことが先決であろう。
 最近の東京都知事や自民党幹事長の言動を、安倍政権は国や郷土、あるいは国民や同胞を愛する心から発していると見なすのであろうか。まず、隗(かい)より始めよ、という言葉もあるのである。
 あらためて、アポロンの神殿に書かれていた言葉を、政治家に言いたい。「汝自らを知れ」