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鈴木忠志見たり・聴いたり

12月29日 「信じる」

 「信じる」という言葉は肯定的な精神活動、それも積極的な精神に支えられた行動を意味する語感を備えていた。信じる対象がある人も、信じられる立場になった人も、生き生きとしていて、人生をガンバッテいるハッピーな人たちであった。
 しかしある時から、信じることは傷つくことであり、みじめな人生を送る原因にもなると、信じなければいけないかのようになった。一時期の大衆が好んだ流行歌の中には、それが良く示されている。特に女性は、信じたことに裏切られ、忍び泣いたりため息をついたりしだした。そして男はいつも、信じた女を裏切り、不幸にする人間になってしまったのである。
 実際のところ、1979年にヒットした流行歌「夢追い酒」では、女は信じたことを反省までしだしていた。「死ぬまで一緒と信じてた、わたし馬鹿です馬鹿でした、あなたなぜなぜ、わたしを捨てた」
 しかし1970年代の初頭ぐらいまでは、まだ信じることを信じたい、という執念のようなものは残っていた。宮史郎とぴんからトリオが歌って大ヒットした「女のねがい」などでは「だまされ続けて生きるより、信じることを忘れてみたい、涙のかれた女でも、一度でいいから泣かないで、愛のすべてをつかみたい」と堂々と歌われていたのである。こんなことをもし、ジット目を見つめながら言われたら、私のような気の弱い男は卒倒するか、ソソクサと逃げ出す以外にはないほどのものである。
 この歌詞の論理性の無さ、男尊女卑社会の男が反動的に想う女心、そのあまりの露骨さには、楽しく笑えるところもあった。この歌をカラオケバーなどで、中年のオジサンがノメリコムように歌っている姿は、日本男子栄光の末路のようで、グロテスクではあるが、一抹の淋しさと共にホホエマシイ感じもしたのである。そのためか、私はこの演歌の歌詞、しかも三番の歌詞だけは覚えていた。それが突然、蘇ったのである。安倍首相が靖国神社を参拝したからである。
 この演歌の歌詞を見つめていると、不思議なことに気づく。どうやらこの女は、男に騙されることが多かったらしいが、まだ諦めない。その心理状態のうちで自問をする、信じることを忘れてみたいと。しかし、愛のすべてはつかみたい。なにがなんだか解らないのだが、それが男の妄想する女の願いとして大ヒットした。
 私は初めてこの歌を聴いたときには、信じるのではなく、男を信じたのではないか、と思っていたのだが、これはアサハカ。特定の男を信じて裏切られたという過去の個人的な事実を、忘れたいと言っているのではなかった。人類普遍で歴史的にも価値あるものとされる、「信じる」という精神的な行為を忘れたい、忘れてみたいと言っていたのである。
 少し前のことだが、アメリカ政府による外国の政府首脳への盗聴行為が話題になったことがある。EUの首脳個人の携帯電話まで盗聴されていた。日本は国が監視対象として、経済、外交、技術の情報を盗まれていたらしい。この事実が公然化したとき、日本の防衛省の大臣はこう言った。そのような報道は信じたくない。
 これは実に日本的であった。大事な問題は、報道を信じるか信じないかではない。アメリカの行為が事実かどうかなのである。当然、アメリカがそんなことをするとは信じたくない、すぐにアメリカにコトの真偽を問い合わせてみる、と言うべきもの。それが報道を信じたくないとは気楽なもの、そこまでアメリカに気を遣うかと笑えた。
 最近、靖国神社を参拝した安倍首相の行為が話題である。政治家としての信念の行動だと称賛する人もいるし、国家間の軋轢を殊更に引き起こす愚かな行為だと批判する人もいる。いずれは、その当否を時が明らかにしてくれるとは思うが、安倍首相個人は、信じたことを行動に移したと満足顔をしていた。
 政治家になった以上は、責任をキチンとしてくれるなら、信じたことはドンドン朗らかに実行してくれるのは結構なことだが、ソコガ、ソレ、日本人はあまりにも政治家に騙されつづけてきた。
 安倍首相の父親はかつて、ある自民党の議員が国会での野党の質問に、政治家はウソを言っても良いと答えたら、ソレハ、ダメダ、政治家は必ずしも、ホントウ、のことを言わなくても良いと言うべきだと、議員に忠告したと記憶している。ウソはダメだが、ダマスのは良いとも受けとれる名言=迷言である。
 安倍首相の就任以後の大向こうをうならせようとする言動も、父親のこの名言を踏襲している感じがしないでもないが、ともかく来年は、ぴんからトリオが歌ったあのナサケナイ演歌の心境に、国民をオチコマセナイように願うのである。日本人はまだ、だまされ続けて生きるより、信じることを忘れてみたい、とは誰も政治家に言いたくはないと思っていると、私は信じたい。
 もし国民が、安倍首相を信じたことではなく、「信じる」という精神的な価値ある行為までをも、もはや忘れたい、肯定的に信じたくないという心境になったら、日本の政治はますます漂流し、日本という国は沈没していく以外にはないのである。安倍内閣お得意の、道徳の再生など笑いごと、人間関係の絆としての国民道徳の消滅、国家の崩壊である。いくら金銭を抱え込んでも、それだけで人間は元気にはなれないのである。
 信念のように見える言動も、他人を騙すための、もっとも有効な演技=ウソになりうることもある。このことを、自戒しながら行動してくれることを安倍首相には望むのである。
 今年も残りわずかになった。政治家への不信感が、さらに多くの国民に浸透したのではないかと思える年であった。来年は、スコシハ、マシ、になることを期待したい。