BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

1月16日 復活への期待

 昨年の12月28日の読売新聞の朝刊に、早稲田小劇場が復活という記事が掲載された。劇場があった空き地に早稲田大学が同名の小劇場を再建することを理事会で決定したというものである。
 早稲田小劇場とはSCOTの前身である劇団早稲田小劇場の専用劇場の名称であった。劇団名と劇場名は同じ、劇場は劇作家の別役実、制作者の斉藤郁子、俳優の蔦森皓祐など、当時の劇団員が建設資金を集め、大学に近い小さな喫茶店の二階部分に造ったもの。劇団が利賀村へ本拠地を移してしばらくしてから、建物と土地は早稲田大学の所有になった。
 早稲田小劇場の杮落としは1966年11月、別役実作の「マッチ売りの少女」、私の演出による公演である。別役はこの作品で岸田戯曲賞を受賞している。10年間、私はこの劇場を拠点に活動したが、その間に唐十郎の「少女仮面」、私の初期の代表作の一つと言われる「劇的なるものをめぐって」などを演出・上演している。「少女仮面」もこの劇場が初演だが、やはり岸田戯曲賞を受賞した。この劇場が造られた経緯と現在までの推移については、2012年3月のブログ「出会いの力」で触れている。
 昨年の8月、早稲田大学の鎌田薫総長から突然の電話があった。現在は駐車場として使われている劇場の跡地に、新しく劇場を建設したいが、その劇場の名称に早稲田小劇場の名前を冠してもよいか、というものであった。現在形では、もう二度と接することのない名前だと思っていたから、鎌田総長からの丁寧な申し出には驚き、かつ恐縮した。それだけではなく、今の時代の日本で、教育機関が新しく劇場を建設するということが可能だということに感動させられた。逆から言えば、それぐらい日本の演劇界の環境の貧しさと、その活動の社会的影響力の低下による、未来の喪失に失望していたのかもしれない。
 新しい劇場は正式には「早稲田小劇場どらま館」という名称になるようである。2014年5月に着工し、2015年2月に完成予定とのこと。
 早稲田大学の構内には、坪内逍遥の業績を記念して、1928年に創設された演劇博物館がある。建物といい、内容といい、素晴らしいものだが、実際の演劇を上演できる空間はなかった。この場所を訪れるたびに、そのことを残念に思ったものだが、小とはいえ演劇専用の劇場が出来るのだから、一体的な運用をすれば日本だけではなく、世界の演劇にも貢献できる活動ができるはずである。近頃は優れた演劇人の輩出は衰えているようだが、一時期の早稲田大学は、日本の演劇界を支えた中心的人物を輩出してきた。千田是也や森繁久弥、小沢昭一を初めとして、私の年代でも寺山修司、清水邦夫、佐藤信などがいる。
 新年の5日から1週間ほど、今年の5月に上海戯劇学院が制作する「シンデレラ」のオーディションに行き、いろいろな人たちに会った。学院の院長や書記はもちろんのこと、芸術団体の主宰者、芸術家や文化団体を支援する基金の責任者、ホテルや美術館や劇場の経営者、あるいは孫文の血を継ぐ大学教授などである。
 日中の政府レベルの文化交流はすべて中止するのが中国政府の方針とのこと。しかし民間の文化交流は、これからも活発にするし期待するとの文化相の公式発言があった故か、会う人ごとに新しい共同事業の計画が提案される。それらすべてに対応するようなことは、私の力量を越えているところがある。中国に長期に渡って滞在できれば別だが、利賀村の事業を将来に向かって、しっかりと定着させる難しい仕事を抱えている。中国の人たちの私への期待は有り難いが、それほど身軽でもないのである。
 多くの共同事業や交流の提案の中に、早稲田大学と演劇を中心とした交流をしたいと考えている、という上海戯劇学院院長の発言があった。院長は演劇博物館を訪れたこともあるという。読売新聞の早稲田小劇場復活の記事から、私を早稲田大学の関係者でもあると思ったのかもしれない。私の現在は、早稲田大学自体とは何ら関係がないから、それが実現すると良いですね、と答えておいた。
 しかしともあれ、早稲田小劇場復活が、日本の演劇界を刺激し、多くの人材を輩出することになるのを願わずにはいられない。