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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月15日 食う

 お盆の休みに田舎の実家へ戻った若い女優が帰ってきた。どうだった、ノンビリシタカ。第一声だから私も常識的。女優は、モウ、イヤニナッチャイマシタ、ぶっきらぼうに言う。私は更に常識的、久しぶりだからお母さんも喜んだろう。喜ぶのはいいんですが、アレヲ食え、コレヲ食え、と毎日毎晩御馳走を出すんですよ。人間は身体が元手だからと、ウルサイ。セッカク、ヤセタノニ。話しているうちに、本当に不機嫌な顔になる。私は呆れて、お母さんも可愛想にと思う。私にも責任の一端があるかも、お母さんに申し訳ないような気にさせられる。
 私の若い頃は世の中は貧乏そのもの。寿司や鰻の出前はタイヘンナ御馳走。それに加えて母親が更に手料理をして、食べ物を付け加えてくれるなんて、涙を流さなければいけない事態なのに不機嫌になるとは、ニッポンジンにあるまじきことなのである。
 石川啄木に、ふるさとの山に向かひて、言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな、という短歌があるが、ふるさとの母に言ふことなし、ふるさとの母はありがたきかな、とは、モハヤ、イカナイラシイ。しかし、ふるさとの母はウルサイとしても、ウルサイ母親が存在するだけでも、シアワセと感じなければならないニッポン、になっているのではなかろうか。年寄りの私はヤハリ思う。
 ロシアの劇作家チェーホフに、人種差別を主題とした作品、「イワーノフ」がある。主人公のイワーノフは理想に燃え、社会活動に精をだし、その揚げ句に全財産を使い果たしてノイローゼ気味になっている。彼の奥さんはユダヤ人だが、この結婚も差別を乗り越えようとした理想の所産。しかし今や、若いロシア女性と親しくなり、ユダヤ人の妻を虐待するので、家庭は悲惨な状態にあると、郡内の人々は噂する。一人が言う。イワーノフは女房を穴倉へ閉じ込めて、「こん畜生、ニンニクでも食え! と言うそうだよ。食うわ食うわ、げんなりするまで食うんだとさ」
 ニンニクの臭いがあたり一面に漂いそうな光景だが、見てきたように語られる噂話には、その基底に人間を差別する感情があることが多い。それが食べものや食べる場面で表現されてくるのが面白い。チェーホフの面目躍如である。
 最近の日本でも、食べることにまつわるケッサクな事件があった。大阪の交番の巡査部長が後輩の巡査に、大量の食料を食うことを強要した。その理由は、部下を鍛えたかったことと、嫌な顔をするのを見たかったのだそうである。
 一度にハンバーガー15個のこともあれば、ドーナツ15個、あるいは大盛りのカップ焼きそば3個のこともあったとか。ただし、その食料費は自腹、先輩としてはケチな話だが、一人の警官はひたすら食い、もう一人の警官はそれをジット見ている。この光景はなかなか面白い演劇的な場面である。後輩の巡査は体重が73キロから88キロに増え、ついに大阪府警に相談、巡査部長は訓戒処分を受け退職した。新聞記事によれば、これに似たことは機動隊とかでもあるらしい。チェーホフだったら、この事実をどう料理するのか、興味が湧く。
 若い女優の母親は、喜ぶ顔を見たくて大量の食べ物を用意し、イヤガラレタ。大阪の巡査部長は、イヤナ顔をするのが見たくて大食いを強要して喜んだ。シリアやアフリカでは内戦に巻き込まれた子供たちが、なにも食べることのできない日々を送っている。わずかな食べ物を手に、必死な顔付きで食べている映像をみているうちに、不思議な人たちが生きている国もあることを、改めて思い出した。