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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月10日 亡命

 女優の顔が時折チカチカと光る。舞台装置の表面に、淡い光が円を描くように流れる。舞台進行中のことである。ナンダロウ、コノヒカリ、と思って客席の後ろを振り向くと、最後列に恐い顔をした一人のオジイサンが座っている。懐中電灯を手にして、こともあろうに舞台に向かって点滅させているではないか。その真剣な顔。1999年、モスクワのタガンカ劇場の芸術監督ユーリ・リュビーモフが、静岡芸術劇場で彼の演出作品を公演した時である。
 終演後にタガンカ劇場の俳優に聞くと、それはダメダシの合図、懐中電灯の点滅の仕方や光の流れ方は、舞台上の俳優への注意だとのこと。声が弱い、動きが鈍い、演技全体のテンポを上げろとか、細かく取り決めがあるのだそうである。オーケストラの演奏家が指揮者をたえず注視しながら、その演奏を展開するように、タガンカ劇場の俳優はたえず客席最後列の中心に点滅する、光を意識しながら演技を続けることになる。
 古代ギリシャ劇場や古いオペラ劇場や昔の能舞台には、神官や王様や将軍の座る席が客席の中心に在り、俳優はたえず、その中心に向かって演技という行為、身体を見せ声を聞かせていた。その中心に懐中電灯が座り、光ったり消えたり、こんなことをされたら演技に集中できないと、不平不満をぶつける俳優がいても良さそうにも思うのだが、そこはエネルギッシュで戦闘的、当時のリュビーモフは、よく俳優をオサエコンデイタ。
 リュビーモフとはシアター・オリンピックスという演劇祭を創設した仲間。もう20年もの親しい友人付き合いだが、彼は1917年の生まれである。ロシア革命の年だから、今年には97歳になる。今やソビエト連邦誕生から崩壊に至るまでの年月を生きた数少ない存在。
 1980年代、ソビエト政府のイデオロギー統制による検閲が強化され、タガンカ劇場での彼の演出作品の幾つかは上演禁止となる。1984年、イギリスの新聞のインタビューで激しくソ連の文化政策を攻撃し、ソ連国籍を剥奪されるが、ゴルバチョフのペレストロイカ時代の1988年、英雄のように迎えられ、再びタガンカ劇場の芸術監督に就任する。その彼と、私が親しく付き合うようになったのは、ソ連が崩壊して再び、ロシアという国が生き返ってからである。
 今年の初めにリュビーモフから、彼のための記念行事が4月にあり、世界中から彼に縁のあった人たちが参集するが、私に何かスピーチをと頼まれる。その時には彼の演出作品の二つ、ドストエフスキーの「悪霊」とボリショイ劇場のオペラ「イーゴリ公」が上演されているとのこと。丁度その頃、私は上海で上演する「シンデレラ」の稽古中、中国の俳優たちを利賀村に残して、ロシアへ行くことにはためらいがあり一度は断ったが、リュビーモフだけではなく、その他のロシアの演劇人からの要請もあり、久しぶりにロシアを訪問することにした。これが最後の顔合わせになるかも、という気持ちもある。
 私にはいろいろな国に演出家の友人がいる。しかし、このリュビーモフには特殊な敬意と興味を感じてきた。彼が亡命生活をしているからであった。市民権を奪われ自分の祖国へ帰れない境遇、これだけは私がどう転んでも、もはや手にすることのできない経験なのである。その時の人間の心境、もちろん人や国柄によっての違いはあろうが、それはどんな感じのものか。リュビーモフの亡命中の生活自体は、ヨーロッパ各国の政府や演劇人の応援もあり、それほどの難儀があったとは思えないが、精神的には何があっただろうか、私にはなかなか納得できる手づるがないのである。
 ポーランドの作曲家ショパンは20歳の時に、彼の才能を評価する人たちの期待を背負って祖国を離れる。当時のポーランドはロシアの支配下にあり、彼の国外滞在中にはポーランドの独立を願う人たちが武装蜂起するが失敗。ウィーンやパリには多くのポーランド人が亡命した。ショパンも望郷の思いは強かったが祖国には帰らず、フランスの市民権を取得、亡命した人たちとの交友を重ねた。そして1849年、ショパンは39歳でパリに死ぬ。
 彼の遺言はすさまじい。遺体はパリに埋葬する、しかし、心臓は取り出してワルシャワに埋葬しろ。驚くべきことに、この遺言は実行され、心臓はアルコールの入った壺に納められ、ワルシャワに埋葬されたという。望郷の心が心臓になって、祖国へ帰還したのである。
 政治権力の強制によって、帰れぬ祖国を思いながら他国で生活する。この時はどんな心境になるのか、私は今までリュビーモフにそのことを尋ねたことがない。今回の訪問では、それを聞いてみようかと思っている。