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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月14日 自分に危険

 社交界の花形として、上流階級の男たちを手玉にとっていた美貌で知的な娼婦が、ウブな若者と恋に落ち同棲する。若者の父親が家をたずねて女に言う。息子とワカレテクレ、我が家の財産をあなたに譲ると言っている。トンデモナイコトダ。女は答える。その話は断った。カネは男から貰ってはいない、自分のカネを使っている。サッサト帰ってくれ。そこで父親が言うのである。
 その言葉を聞き、その応対振りを見ると、付け焼き刃の言葉とも、芝居がかった物腰とも思われん、世間の噂どおり、あんたはなかなかしたたかで危険な人だ。
 父親は自分の息子が身を誤った、家庭を顧みなくなった、それはこの女のためだと思い込んでいる。実際には、男が先に女に惚れ夢中になったのだが、父親は自分の息子が悪いとは思っていない。身近なものを悪く思いたくないのは、人間の性癖である。非行少年の母親が、自分の息子がグレタのは、友達や学校のセイだと思い込み、他人を非難するのと同じである。この時の女の返答がケッサクである。危険と申すのは自分にとって危険なので、他人様に危険なのではございません。
 この切り返しの啖呵(タンカ)は、なかなか見事だと感心する。ヴェルディのオペラで有名になった「椿姫」の原作戯曲、フランスのアレクサンドル・デュマ・フィスの作品の一場面だが、上手いセリフを書いたものである。何かの折りに、チョット口にしてみたいと思わせられる。唐十郎の戯曲に、私は騙されたと言った女が、人間は他人に騙されたりはしない、自分に騙されるのだ、と男に言われる場面があったと記憶するが、同種の発想ではある。
 自分が危険、これを他人に堂々と言えるのは、自信がある証拠。この危険は摩擦を承知で、自分のこれまでの生き方を変えるということだから、実行するには相当なエネルギーが要る。「椿姫」の主人公は、そのエネルギーが自分の中に在ることを発見し、自分に新しく期待を抱いたのである。
 いつだったか、有名女優に言われたことがある。ホントウだとかウソだとか、そんなことはドウデモイイのよ。騙されると知ってはいても、少しの間でも自分が情熱的になれるんだったら、イイジャナイ! コマッタ女優である。自分を騙してくれる対象が出現することを積極的に望んでいる。しかし、自分の心の退屈を、ここまで自覚しているなら、マア、イイカとも思う。これも相当な自分への自信に裏打ちされていなければ言えない言葉。世間のしきたりや他人の顔を伺いながら、チマチマとした自己満足と、時折チッチャナ自己欺瞞を正当化して、日々を安穏に生きている人たちよりは女優らしく、イカシテはいるのである。まあ、勝手にしてください、お手並み拝見といったところ。
 もう30年以上も前、伊豆の温泉宿で哲学者の中村雄二郎さんと、一冊の本「劇的言語」を刊行するために、三日三晩の対談をした。当時は、連合赤軍が大量の仲間を殺し、世の中を騒がせた直後である。既成の権力の打倒を目的とする革命集団の幹部が、疑いをかけた仲間を次々とリンチ殺害した集団犯罪である。それについて私は発言した。ジャーナリズムは、これでも人間か! と書くけれど、これが人間だ! と書くべきだと。
 私の言いたかったことは単純なこと、これでも人間かと書くとしたら、ジャーナリズムには人間を人間たらしめる基準が確固として存在し、その基準の内には殺人という行為は含まれていない、と考えていることになる。これは私とは、根本的な認識の違いであった。古今東西、殺人こそが人間のもっとも不可解な行為であり、その不可解性が人間を人間たらしめてきた、というのが私の認識だからである。これは現代に於いても、ますます顕著になっていることではないか。
 街路で通りすがりの人を突然に殺す人間、自分の生んだ子供を虐待して殺す母親、虚偽の理由を捏造し、他国の市民を無差別に殺戮する政治家、これらの行為はなに一つとして、多くの人に理解され、その意味を共有されているとは思えない。理解不能、それが人間なのである。人間はそれ自体では善でも悪でもない。状況次第では、どのようにでも変化する生き物、その変化の多様さと不可解さに言葉を与え、その行為の意味を集団で共有しようとするのが、むしろ人間らしい努力。これでも人間かと、犯罪や危険な心情や常識を逸脱した行為をただ抑圧したり排除したら、人間理解の進展はおぼつかない。例外的に見える人間の行為や心情こそを、これが人間だと見做し物事を考えていくべきではあるまいか。
 一般的な常識からすれば、逸脱した行為をしている自分は、他人に危険なのではなく、自分に危険だと言い放つ「椿姫」の女主人公は、なかなか醒めていて勇気がある、魅力的な人間である。
 まず常識的な理解を越えるものにこそ、人間の姿が鋭く顕現していると考えること、これは近ごろの日本人、とりわけ教育現場で忘れられていることのような気がする。表面上、ただ杓子定規に真面目な人間は、人の好い無邪気な人間と並んで、現在の日本では、それほど意味のない存在なのではあるまいか。