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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月21日 恐怖

 裁判員制度導入の故か、近ごろ被害者の家族が、加害者に極刑を科すように法廷や報道のインタビューで訴える姿を、よく見かけるようになった。感情的、情緒的なその発言と顔の表情をテレビの画面に大写しにされると、時として違和感を覚えることがある。個人としての復讐心や敵討ちの心情は、それなりに理解できるとしても、それが公的な場面に直接的肯定的に侵入してくると、加害者への復讐や仇討ちの心情を、共有することを強制されていると感じて、イヤナ気分にさせられる時もある。
 復讐や敵討ちの仕方は国家が決める、言い換えれば、制度として確立された法律と裁判、それを正確に運用する人たち、検察官なかんずく裁判官が決めるのが近代法の成立した社会のルールである。その裁判官の最終決定に、激しい疑義を述べるのは良いのだが、法の運用の決定=刑の確定以前に、被害者そのものではなく、その関係者に復讐の仕方、長期の拘留や加害者の生命の抹殺を主張されると、どうしても違和感を拭えない。
 こういう場面に接すると私は時々、妻を犯され殺された男が、自ら犯人を捜しその所在をつきとめ、証拠の品を携えて仇の家に乗り込んで復讐を果たす、アメリカの西部劇などを思い出すことがある。しかしこの場合の復讐は、復讐をする人も自分の生命を賭しての行動である。近ごろの流行の言葉で言えば、自己責任としての行動であるから、自分の方が非運の死を遂げることもある。自分の感情だけを正義の拠りどころに、第三者に復讐や敵討ちの行為を依頼しているわけではない。西部劇には一人の人間の生き方としてのロマンはあるが、しかしこれは、近代法に基づいて成立してきた社会の否定してきたところでもある。
 三上於莬吉に「雪之丞変化」という時代小説がある。昭和10年に新聞小説として発表された。子供の頃に長崎で、在らぬ罪を着せられて父親や家族を処刑された、女形の旅芸人中村雪之丞が、今や江戸で我が世の春を謳歌している仇、元長崎奉行とその一味をひとりひとり殺害していく復讐の物語りである。
 市川崑監督の映画では、すべての復讐を了えた主人公が、最後に風吹くススキが原に点描のように小さく消え去っていくのが印象的であった。その場面に、雪之丞のその後は誰も見たことがない、といったナレーションが流れたと記憶する。これもまさしく、近代社会が確立した法のルールを逸脱した個人の行動であり、それを寂しくも激しく美化した物語りではあった。
 最近その真相が身近になった殺人事件の裁判、結局は無実の罪で48年間も拘束され、いつでも死刑として殺すことができる、と国家権力の代行者たちに脅迫され続けた袴田死刑囚の人生に触れると、近代社会の根幹を形成する原理を、どう信じて良いのか衝撃を受ける。もし袴田さんが復讐を果たそうとしたら、その相手は警察官や検察官や裁判官として明確に浮上してくるからである。
 国家という人間集団を健全に維持するルール=法律、その最も公正な運用者であるべき、警察官、検察官、裁判官が、袴田さんに犯罪を犯している、事件をデッチ上げたり捏造する警察官や検察官、それを批判的な理性でチェックしない裁判官。法曹界という男が中心の仲間社会の弛緩や堕落が、実に良く読みとれると、他人事のように見過ごすことのできない恐怖を感じる。この罠にはまったら、自分はどう身を処すべきか迫ってくるのである。
 この人たちには、法曹界に生きる人間が身につけるべき基本の人間観、人間は不完全な存在であり、自分の利益目的や行為の正当化のためには、いくらでも邪悪な感情をも生きる可能性のある存在であるという認識、そういう自らをも含めた人間に対する謙虚さと公正さが、欠落していたように思える。
 報道によると、この袴田事件に関与した警察官、検察官、裁判官はすべて男、そして、それぞれの世界でそれなりの立身出世をしたという。こういうイイカゲンでイイキナ人たちの存在を知ると、何とも暗い情念が湧いてきて始末に困る。袴田さんに言ってあげたくなるのである。あなたには復讐や敵討ちは許されている、なんの遠慮もする必要はない、アメリカの西部劇や日本の時代劇はあなたのものだ。
 源平最後の決戦ともいうべき壇ノ浦の戦いで、源氏の軍に敗れ、平家一族の滅亡を目の当たりにした平知盛は<見るべき程のことをば見つ。今はただ自害せん>と言い、鎧二枚を着て海に飛び込む。敵の捕虜になる恥辱を避けるためである(文楽や歌舞伎では碇を担いで入水)。この行為によって知盛は、潔い日本の男の一人として、語り継がれてきた。
 法の正義に悖る決定を下した人たちに、死んでくれとまでは言わないが、正義を盾に他人を断罪する特権を持つ者は、少なくとも誤りの責任の所在は明確にし、身の振り方をすみやかに決する覚悟はしておいてもらいたい。それが権力を行使する人間の、国民に対する義務であり、礼節のある態度である。
 こういう裁判の結末に触れると、安倍首相や文科省が唱える道徳教育は、まず大人から始めるべきだとつくづく思う。袴田事件の推移を知れば知るほど、日本の法曹界、いや、近代国家としての日本の根幹部分は腐っている、と感じるからである。