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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月15日 激甚災害

 上海から利賀村に帰る。ここ一週間は雨ばかり、裏庭の池に降りしきる雨を見ながらチェーホフの言葉を思い出す。雨が降ったら雨が降ったとお書きなさい。激しくとか寂しくとかシトシトとか、余分なことを言わないほうが良い。これは舞台上の演技も同じ。ニュアンスを付け加えたくなったり、チョット誇張をしたくなったり。だからといって、行政官や学者の文章のように、アジケナク、空虚になりたくはなし。
 もう30年以上も前になるか、利賀村の村長と二人で、雨の中を歩いていたことがある。両側を山に挟まれ、わずかに残った平野部の中央を流れる百瀬川は、濁流が渦巻いている。立ち止まって川面を見つめていた村長が呟く。人が死なない程度に、激しい災害でも起こらないかな。そして、私の顔を見て笑う。私は返答に困って、ただ黙って横顔を見つめた。
 東京から活動の拠点をこの利賀村に移したばかりの頃である。風貌も年齢も、死んだ私の父親に似ている村長、軍人として満州にも出征し、負傷している。戦前、戦後の価値観の変転の中を苦労して生き抜いてきた雰囲気は、その身体に染みこんでいる。その村長の言葉の意味は、若造の私には咄嗟には分からない。自治体の長が災害を望んでいる、それも激しい災害をである、キミョウ! しかし実際のところ、私はこの村長の言葉に感動させられて、40年も利賀村に居ることになった一面がある。村長という立場の苦しさの一端を垣間見たと思ったのである。
 激甚災害の指定を受けると、復旧事業のために国から高額の補助金がくる。通常の財政援助より金額は嵩上げされる。税収が少なく財政力も弱い自治体にとって、これほど有り難いことはない。公共事業の裏道、人の行く裏に道あり花の山である。この時の利賀村の村長は、河川が氾濫し道路は決壊、田畑の冠水や山崩れで農業や林業が打撃を受けること、それが村の経済を活性化すると考えていた。
 自治体のトップが、災害が起こることを希求する、そしてその災害は、人が死なない程度であってほしい、私はこの言葉の胸の内にホロリとさせられた。自然災害という偶然性に期待し、補助金という他人の税金に依存する、それまでの私がまったく知らない、と言うより、対極にある人間の生活とその環境を目の当たりにしたのである。またそれだけではなく、少し大袈裟になるが、日本を生きるという実態の一端に触れたような気もしたのである。
 それから40年近く経った。その間に日本の首相は24人も代わっている。皮肉なことに、首相は代わっても日本は何も変わっていないように思える。偶然性に期待し、金銭的に強い者へ依存すること、それによって自らの環境を変化させたいと願う体質、これは最近でもよく見かける日本国家の体質でもある。しかし、こちらの方はホロリとさせられるのではなく、むしろオコレテクル。
 「世界的に予測のつかないICT分野において、破壊的な地球規模の価値創造を生み出すために大いなる可能性がある奇想天外でアンビシャスなICT技術課題に挑戦する人を支援。閉塞感を打破し、異色多様性を拓く」
 上記の一文は、独創的な人向け特別枠、<通称・変な人>を支援する事業、総務省情報通信国際戦略局技術政策課が発表した事業概要の頭に出てくる。文中には、イノベーションについてのスティーブ・ジョブズの英語文も引用されている。支援金は上限300万円だそうである。破壊的な地球規模の価値創造? ソレデ、300万円? 失笑しながら、ジブンデ、ヤレ! と言いたくなる。
 こういう内容のない誇張した日本語とナマイキな態度に触れると、総務省は解体するか、これに関わっている人たちは日本を離れるか、早くあの世にでも行ってもらいたいと思う。ここには偶然性と他人に期待し依存することが生んだ典型的な体質が虚ろに表れている。この体質の人間が、日本存続の生命線はITと英語だと思い込んでいる。こういう人間たちが使っている日本語とそのイイキナ態度が、いかに日本を滅ぼしているかに、政治家や文部科学省の幹部は思いを致すべきである。
 この人たちの言葉には、村長の言葉に在る真面目な心情の苦しさがない。残念だが、ツクヅクト言いたくなる。人が死んでもよいから、霞ヶ関に激甚な災害でも起こらないかな。そうしたら日本は、今より少しはマシになるかもしれない、と。