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鈴木忠志見たり・聴いたり

7月28日 申し訳ない

 昨日、利賀芸術公園内の三つの劇場、利賀山房、岩舞台、リフトシアターを会場にして行われていた演劇人コンクールが終わった。これはSCOTサマー・シーズンとは別の催しで、公益財団法人・舞台芸術財団演劇人会議の主催である。若い演出家を応援するために、いろいろな分野からの審査員が、舞台終了後に公園内の劇団専用のレストラン・ボルカノに集まり、作品を上演した人たち、それに観劇した人たちも加わったりして、夜遅くまで話し合いがされていた。
 今年で15回目にもなる催しだが、数年前までは私も審査員をしていた。20本以上の作品を毎日観たことがある。自分の作品の稽古をしている最中に、他人の作品を鑑賞し、その感想を当事者たちに伝えること、舞台を観るのは嫌いではないとはいえ、さすがにある年齢からは、心身ともに疲れを覚え、最近は審査員は遠慮させてもらった。
 しかし時折、知り合いの演出家から観劇を強く頼まれることがある。その気持ちは嬉しいのだが、私の活動の本拠地での催しであるので、不公平にならないように、頼まれたものだけではなく、すべての公演を観ないことにしている。利賀村まで来てくれたのに申し訳がない、という気持ちがないわけではないが、仕方がない。
 先日、審査員の一人である振付・舞踊家の金森穣から、あまりヒドイ舞台作品だと空間が神聖になるのではなく、穢されるということもあると思ったという言葉をきいた。私への気遣いの心をも、すこし込めてくれた感想である。実際のところ利賀村では、自らが招聘した演出家の作品以外の舞台は、できるだけ観ないことにしたのは、まさにそのことに因っている。自分なりに愛し、長い時間をかけて創造してきた空間は、ある種の心の故郷になってしまっているところがある。それをヘタ=無神経に使われているのを目の当たりにするのは、ジツニ疲れるからである。
 むろん、舞台の進行中に、演出や演技あるいは照明のプランに注文をつけられれば別だろうが、気になるところを口に出さず、ジット黙って我慢している辛さは、ナカナカ私の人生の中でもないこと、ついにその忍耐だけからは逃亡させてもらったのだ。
 こんなことを言うと、参加作品のすべてが、不出来な舞台であるかのような印象に聞こえるところもあるが、そういう不遜なことではない。予測を越えて、見事な手腕で新鮮な劇場空間を現出させたと、感激・興奮したこともあるのである。マア、30年以上にわたって私の身体が棲み込み慣れ親しんだ空間、そこに他人が入り込んで動きまわっているのに、無関心で居る方がヘンダヨネ、ぐらいに思ってもらえれば幸いである。
 来月になるとSCOTサマー・シーズンに参加するために、世界中から多くの人たちが次々とやってくる。これも有り難いことだが、今年は例年になく外国の演劇人、それもプロの来村者が多い。その人たちに意気込みを感じる。作品を発表するに際し、芸術公園内で長期に滞在し、稽古をしたいとする希望が多いからである。その意気込みを引き受ける利賀村の環境が追いついているかどうか、少し心配になってきたところもある。
 身体に集中して仕事をする芸術家=舞台人にとっては、その能力を充分に発揮できる稽古場や宿舎の在り方は重要なことである。舞台人はスポーツ選手と同じで、本番前に訓練をする環境の善し悪しが、その出来具合を左右する。その環境が少し行き届かなくなってきたのではないか、と危惧するのである。
 人口600人にも満たず、しかも限界集落である山村、そこに世界各国から身体の専門家が訪れる。その利賀村への行為と好意には感謝だが、それだけに申し訳ないことをしたと感じることのないようにしたい、とも思うのである。