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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月9日 或る男の夏

 初日の舞台が終わった後、あなたセンスガ、イイワネ。女優たちに言われて男はイイキモチになる。具体的にはなんのことだかわからない。デモ、イイノダ。ホメラレタに決まっている。というよりナニカを感じたのだ。エレガントだったのかセクシィーだったのか。折角、極東の島国の山村にまで来て演技したのだ。初日の緊張から解放され、男は機嫌が良い。パーティの席で呟く。日本の生ビールがこんなにウマイなんて。
 都会でしか生活したことのない男、少し自分に感動しているらしい、興奮気味に女房に電話をする。タノシンデイルヨ! フーン。愛想のない声、何をしているのかとも、いつ帰るのかとも聞かない。ソレジャア、ゲンキデネ。いつもこんな具合だ。感動を共有しない。ウソでもよいからソレハヨカッタワネ、の言葉が欲しい、と男は思う。家を出るときに女房が言った言葉、日本の炊飯器は性能が良いらしいよ、カッテキテネ! だけではあまりに寂しい。
 夫婦は親しきをもって原則とし、親しからざるをもって常態とす。日本人の言う通りだ。昔に日本語学校で教わった夏目漱石の言葉が浮かぶ。男は二杯目の生ビールを注文する。さっきまで、舞台上で一緒に演技をしていたオバサン女優が、ニコヤカに注いでくれる。日本人は外国人にヤサシイと言うが、ホントウダ。ヤサシクしてくれるのは、やはりこの女優にとっても自分は魅力があるらしい、男は三杯目の生ビールを頼む。
 外国人の世話係の事務局の女が近づいてくる。この女はいつも無表情、外国人に抑圧を感じるタイプのようだ。宿舎が一杯になっちゃって困っているのよ、あなたテント村に移動してくれない、今年はナンデこんなに女が多いのかネ。ジツニ、ブッキラボウ。物事の頼み方を知らない。
 もう少しするとハエに似た吸血虫が出ると聞いたけど、僕は虫に弱くてね。女は相変わらずの無表情、アンタは太っているから少しぐらい血を吸われた方がイイヨ。ここはトランシルバニアじゃないからダイジョウブ、血を吸われても変身しないからさ。ドラキュラ伯爵のことらしい。男はこれ以上は話したくないのでアイマイにした。
 10人ほどの外国の男たちがテント村に集められる。いつの間にか自分も同意したことになっている。ギリシャ、トルコ、スペイン、ブラジル、ノルウェー、アメリカなどの若い男たち、その中の一人が言う。アジア人が誰もいない。中国人や韓国人もたくさんいたはずだけど。女は言う。チョット、気をつかったの。
 中国と韓国と日本は今、仲が悪い。虫に咬まれたぐらいで、日本人に意地悪されたなんて騒がれても困る。領土のモメゴトは自分たちで解決するから、演劇人の宿舎の問題ぐらいは民間で仲良くやれ、と日本政府から指示が出たと説明する。ヘンナ理屈だが、アジアは複雑らしい、男もヘンナ納得の仕方をする。
 外国での夜のテント、男はなかなか寝付かれない。外に出ると星が輝き、幾重にも折り重なった山並みが暗い。集団で人工的に作り上げられる舞台作品、それも小さな室内空間の中での出来事、それとは対照的に何処までも広がっていく自然、そこに一人で佇む茫漠とした感覚、男はこれも一期一会のことかもと思う。
 オレの人生観も祖国に帰ったら、少し変わるかもしれない。帰国の折りに事務局へ挨拶に行き、女に言う。タノシカッタヨ。バス停に向かって歩きだした男の背中に女の声が届く。炊飯器を買わなきゃダメダヨー。初めて聞く女の朗らかな声、男は振り向いてニコヤカに一言、モチロン!