BLOG
鈴木忠志 見たり・聴いたり
9月13日 末路の様態
SCOTサマー・シーズンが終わりに近づきつつある。今は16カ国28人の人たちが私の考え出した訓練をしているだけ。それも15日には終了する。SCOTは11月に北京で開催されるシアター・オリンピックスの「リア王」の稽古をしているが、それも20日からしばし中断し休暇に入り、10月の半ばに再開する。その時は「シラノ・ド・ベルジュラック」の稽古も同時に始まる。
今年のサマー・シーズンの話題は何といっても、25年振りの「トロイアの女」の再演だが、私の心づもりでは新作である。初演は40年前、それとは大きく内容は変わっている。視覚的には初演と近似している部分があるから、過去の印象にこだわって、それとの比較で舞台に接する人もいる。そういう人は概して懐古趣味的、グローバリゼーション下での今回の舞台の演出的文脈を見落とす傾向にある。演出の視点を殊更に現代的にしたから、初演当時のエウリピデスの戯曲部分の扱いは違っている。
今回の舞台では、大岡信が潤色したり、書き下ろした部分は全くカットしている。「トロイアの女」の部分の台詞は、完全に原典だけのものが使用されている。老婆がカサンドラに変身する場面の台詞などは、初演とはすべて異なっているし、初演の舞台のクライマックスとも言うべき場面、大岡信潤色のメネラオスとヘカベの対決場面は存在していない。その場面は、サミュエル・ベケットの言葉に代えている。
非運にあった女性の怒りや恨みや悲しみが、全面に躍り出てくるのではなく、そういう個人の存在や心情すらも、小さくミジメに感じさせてしまう歴史的時間の非情さと、その渦中を生きる人間存在の哀しさに、演出的な焦点をあてている。だから、古代から変わらない戦争の暴力のすさまじさと、それに対抗できるはずだった宗教の無力、それらに対する個人の諦観が虚ろに響く舞台になっている。
この演出的な視点は、完全な今回の新作「からたち日記由来」でも同じである。個人が主役として劇的に生きた心情も、社会的な関係と時間の推移によって、どのようなものに変形していくのか、その渦中を生きた人間のミジメサと哀しさが描かれている。それだけではなく、通俗音楽として一部の知識人に嫌悪されてきた歌謡曲が、なぜ女の不幸や願いを歌詞にして、歌われてきたのかを表出している。私にとっては歌謡曲ほど、空しく類型的でホホエミを誘う音楽もないのだが、それゆえにまた、決して無視できない貴重な存在なのである。その歌謡曲に思いを託す以外に行き場所のない人生、その狂いの様態を描いたのがこの舞台である。
しかし、同じように、虚ろな人間の存在とミジメナ人間の境遇を描いたとはいえ、戦争によってすべての家族を失った不運な老婆と、世間の目から隠れて恋心に生きた女性に思いを託す老女の不幸の質は異なっている。一人はホームレスとして、一人は狂人として孤独に生きるが、世界中が戦乱の渦中にあり、人間関係の絆も崩壊しつつある時代に、この二つの対極に在るように見える人生の末路は、現在のわれわれにとっても、無縁なことではないと思っている。
この二つの舞台は年末の12月、毎年恒例の吉祥寺シアターで上演する。休憩を挟んで一挙に、二つの舞台を上演しようと考えている。利賀村でそれぞれの舞台を単独で観る時とは、ずいぶんと違った印象になるのではないか。私自身もそれを楽しみにしているところがある。
今夏も日本並びに世界各国から、昨年以上に多くの観客の方が利賀村を訪れてくれた。残り少ない人生だが、これ以上の励ましはない。感謝の気持ちで一杯である。